紅 〜醜悪祭〜(上)   片山 憲太郎 [#改ページ]  CONTENTS  第一章 冬が来たりて  第二章 女王の死  第三章 さがしてください  第四章 姉から妹へ  第五章 星噛の要塞  あとがき [#改ページ]   第一章 冬が来たりて [#ここから1字下げ] 結局、わたしは一人で行くことにした。 助けは呼べない。相談もできない。口外すれば全《すべ》て無効。資格は消える。 それが、赤い手紙に記されたルールなのだ。 行かないという選択|肢《し》は、もちろんあった。 あれを、見なかったことにすればいい。 無視して、忘れて、これから先も生きていけばいい。 そういう道はたしかにあった。 でもわたしは、行くことにした。 だって、どうしても、どうしても、どうしても、許せなかったから。 許すわけにはいかなかったから。 わたしは一人で、行くことにしたのだ。 妹には、悪いと思う。本当に、すまないと思う。 ごめんね、静之《しずの》。 どうか、お姉ちゃんを許してね。 [#ここで字下げ終わり]  紅真九郎《くれないしんくろう》には、村上銀子《むらかみぎんこ》という名の幼《おさな》なじみがいる。無駄話が嫌いで、必要がなければ何時間でも口を開かない彼女だが、昔は、唐突《とうとつ》に質問をぶつけてくることがよくあった。「ねえ、真九郎。空がどうして青いのか知ってる?」とか、「憲法って知ってる?」とか、「人類がいつごろ発祥《はっしょう》したのか知ってる?」など、分野を問わない様々な質問。読書家の銀子は幼い頃から博識だったのだが、家族は仕事で忙しく、身につけた知識を披露《ひろう》する機会に恵まれなかったので、適当な相手として身近な者を選んだのかもしれない。その選定は間違っておらず、「きっと神様が青いの好きなんだよ」とか、「ケンポーって、必殺技があるやつでしょ?」とか、「すっごく昔だと思う」などと、トンチンカンな返答しかできない真九郎は、彼女の自尊心を満足させることにかなり貢献《こうけん》していたはずである。銀子はいつも「あんた、そんなことも知らないの?」という顔をし、嬉《うれ》しそうに笑っていた。そして、「それはね」と答えを告げるのだ。多分そこには、ろくに本を読まない無知な幼なじみに対する気遣《きつか》いも含まれていたのだろう。彼女のそういうところが、真九郎は好きだった。真九郎が彼女から得た知識は、とても多い。  しかし、いくつか答えを教えてもらっていないこともあったりする。  その一つは、こんな質問だ。 「ねえ、真九郎」 「何、銀子ちゃん?」 「あんた、男と女の違いが何かわかる?」  これは簡単だった。真九郎はすぐにわかった。だから答えた。 「おっばい!」  真九郎は、耳まで真っ赤になった銀子に思いっきり頭を叩《たた》かれた。それからしばらく銀子は口を利《き》いてくれなかったので、答えを聞きそびれてしまい、現在に至《いた》るのだ。  ……あれ、正解は何だったんだろう?  今さら訊《き》くのも恥《は》ずかしい。  永遠の謎か。  十二月九日。水曜日。朝。星領《せいりょう》学園。  寝不足気味の頭を抱えて校門を通った真九郎は、たわいもない記憶を振り返りながら下駄《げた》箱で上履《うわば》きに履《は》き替え、廊下を進んで教室に向かった。一年一組の扉をそっと開き、心持ち姿勢を低くしつつ教室に入ると、そこで待っていたのは重苦しい静寂《せいじゃく》。生徒はシャーペンを片手に問題と格闘中で、教卓にいる監督役の教師が、険しい表清で真九郎を睨《にら》みつけていた。正面の黒板には、『日本史 八時五十分〜九時四十分』というチョークの文字。星領学園は今、期末テストの真っ最中だった。本日はその最終日で、現時刻は九時十分。つまり。 「遅刻だな?」 「……遅刻です」  教師の言葉に頷《うなず》き、真九郎は肩を落とした。出席番号と名前、そして遅刻の理由を尋《たず》ねられたので、「出席番号十二番、紅真九郎、寝坊です」と真九郎は返答。遅刻の理由はウソだが、本当の理由は言う必要もない。平気でウソをつけるのが大人になった証拠だよな、と無駄な思考を働かせているうちに退出を命じられ、教師の顔色から取り付く島がないと判断し、真九郎は素直に従うことにする。  教室を出る際、誰かの視線を感じて振り返ると、既《すで》に問題を解き終わったらしい銀子がこちらを見ていた。メガネの奥にあるのは、呆《あき》れたような眼差《まなざ》し。口が小さく動く。それは読唇術《どくしんじゅつ》の心得《こころえ》がなくとも解読可能な、簡単な三文字だった。  バカね。  悪かったな、と同じく口を動かして反論し、真九郎は教室から退散。  しょうがない。終わるまで、廊下で待つとしよう。  当然のことながら、廊下にはまったく人気《ひとけ》がなかった。無人の空間にあるのは、窓から射《さ》し込む陽光と、隅《すみ》へ追いやられた薄闇《うすやみ》、そして冬の冷たい空気だけ。じっとしていると足元から冷気が這《は》い上がってくるようだったが、あまり歩きたい気分でもないので、真九郎は我慢《がまん》することにした。頭と体が、少しだるい。多分、朝食を抜いたのが原因だろう。今朝は、いろいろと大変だったのだ。  真九郎が目を覚ましたのは、午前五時頃。まだ朝日も昇らないそんな時間に起床したのには、もちろん理由がある。廊下からの騒音に、眠りを邪魔されたのだ。具体的には、「じんぐろうぐーん」という呻《うめ》き声である。誰かと思い真九郎が部屋を出て見ると、それは武藤環《むとうたまき》。彼女はいつものようにジャージ姿で、いつものように飲んだくれ、いつものように廊下で寝転んでいた。「じんぐろうぐん……お水……じょうだい…」。ガラガラ声で手を伸ばす彼女を見てため息をつきながらも、真九郎は一度部屋に戻り、コップに水を入れて渡した。「環さん、ちゃんと自分の部屋で寝てくださいよ」「むーりー」。常識的な注意をすねるような顔で受け流し、環は水を一気飲み。放っておけば、廊下で熟睡するのが毎度のパターン。真九郎は仕方なく環を背中に担《かつ》ぎ、6号室の扉を開いた。すぐに後悔した。見るんじゃなかった、と。五月雨《さみだれ》荘において、4号室が奇々怪々《ききかいかい》な異空間だとすれば、6号室は整理|整頓《せいとん》という思想の存在しない魔境。生《なま》ゴミで溢《あふ》れかえった台所をはじめとして、様々なものが散乱しているのだ。敷きっぱなしの布団《ふとん》、いつ洗濯したのかわからないジャージや下着、様々なリモコン、ゲーム機のコントローラー、扇風機のプロペラ、錆《さ》びたバーベル、ボーリングの玉、洗面器、ビデオ、DVD、マンガ、そして大量の酒瓶《さかびん》とビールの空《あ》き缶等々……。特に、天井に届くほど山積みにされたカップ麺《めん》の空《から》容器は壮観で、何か芸術的な意味でもあるのかと錯覚《さっかく》してしまいそうなほど見事に部屋の一部と化していた。  真九郎は時計を見て、僅《わず》かに逡巡《しゅんじゅん》したが、すぐに決断。ひとまず環を5号室に寝かせてから、戦いを始めることにした。敵はもちろん6号室。まずは窓を開け、濁《にご》った空気を入れ換える。生ゴミやカップ麺の空容器などの捨てられるものを廊下に出し、床に散乱した雑誌類は、整理してから押入《おしい》れに。畳《たたみ》が見えたところで念入りに掃除機をかけ、雑巾《ぞうきん》で細かい汚れを除去。ジャージや下着はまとめて洗濯。湿った布団の代わりに自分の部屋から客用の布団を運んで敷き、「あうー、お母さん、そのマンガ捨てないでー」と子供の頃の夢にうなされる環を抱えてそこに寝かせた。その後で布団と洗濯物を干し、大量のゴミを外のゴミ捨て場に運び、環の食べるおかゆを作り、それからようやく真九郎は登校したのだ。朝からそんなことをしていれば、遅刻しても当然ではある。  これで日本史は赤点になってしまったわけだが、まあいいかな、というのが真九郎の正直な気持ち。このことで環を責める気もない。武藤環は出会った頃からそういう人物であり、それも含めて、真九郎は彼女が嫌いではないのだ。格闘家として尊敬しているし、多少の迷惑は許容してもいいと思う。真九郎のこういう気性は、銀子に言わせると「あんたは昔から、一つでも美点を見つけると、その他の欠点はわりとどうでもよくなっちゃうのよね」と、半《なか》ば呆れられたりもするのだが。  テストが終わるまで少し時間があるので、真九郎は電車の網棚《あみだな》で拾った新聞を鞄《かばん》から取り出し、窓を背にして開いた。この時間を使って次のテストの予習を、と考えない自分は模範的な高校生から遙《はる》かに遠いなと思いつつ、記事に目をやる。いつものことだが、胸糞《むなくそ》の悪くなる事件が多い。授業中に居眠りする生徒に激怒し、頭から熱湯をかけた小学校の教師。人工授精を望んだ夫婦を百組以上も騙《だま》し、その全てに自分の精子を使用していた医者。「レジの順番待ちが長い」という理由で、スーパーで包丁を振り回した若い主婦。これらの事件だけでも真九郎はうんざりするが、まだ最悪なのがある。赤ん坊だけを狙《ねら》い、暴行を加えていた中学生のグループが捕まったのだ。母親が目を離した隙《すき》に乳母車《うばぐるま》に近寄り、寝ている赤ん坊の唇《くちびる》を摘《つま》んでクリップで厳重に留め、口の開閉を封じる。そうすれば泣き声は外に漏《も》れず、周囲に気づかれずに殴れる。見つかるまで、自分たちがいかに上手《うま》くやっていたのか、どれだけスリリングだったのか。口の端から血の泡《あわ》を吹く赤ん坊の様子も含めて、彼らは警察に自慢げに話してみせたらしい。余罪は数十件に上るが、彼らが未成年ということもあり、たいした罪には問われないだろうと記事は締め括《くく》っていた。  真九郎としてはもうため息しか出てこないのだが、近所に住む魔女は、こうした現状を「実に人間らしい」と評する。 「少年。人間らしさというのはな、義務と欲望と禁忌《きんき》を為《な》すことなんだ。やるべきことをやり、やりたいことをやり、やってはならないことをやる。それが人間さ。どれか一つ欠けるだけでも、人間は人間らしさを失ってしまう」  真九郎にはよくわからなかった。本当に、よくわからなかった。ただ、このままいくと、世の中はどれだけ悪くなっていくんだろうとは思う。果てしなく悪化するだけなのか。それとも、マスコミが好んでそういうものを報道しているだけで、全体はそれほど変わりないのか。  一時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。 「やっと終わりか……」  新聞を折り畳《たた》み、真九郎は鞄に戻す。多少は頭が冴《さ》えたので、次のテストはそれなりにやれるだろう。念のため、少しくらいはノートを見直しておこうか。軽く欠伸《あくび》を漏らしながらそんなことを思い、教室に向かおうとしたところで、真九郎の懐《ふところ》で小さな振動。  ……メール?  液晶の表示を確認すると、相手はよく知る人物だった。メールの文章に目を通し、真九郎はすぐに返信。またメールが来たので、返信。しばらくそれを繰り返す。 「あいつ、電話やメールはなるべくするなって言ったのに……。あ、でも、今日は会えるんだ。じゃあ、迎えに行く時間を……」  ぶつぶつ言いながら真九郎が返信の文を打っていると、「おい、紅」と近くで声。  視線を向けたそこには、真九郎を睨《にら》みつける監督役の教師の姿。 「おまえ、そのメールの相手は女か?」 「まあ、一応……」 「美人か?」 「まあ、一応……」 「親しいのか?」 「……かなり」 「そうかそれは良かったな」  教師は平坦《へいたん》な口調でそう言い、次のテストも廊下で立っているよう真九郎に命じた。遅刻しておきながら反省の色が見えない、というのが理由だろう。次のテスト科目は英語。これにて英語も赤点となり、今週の放課後は、追試に追われることがほぼ確定だ。  ……参った。  肩を落としながら真九郎が教室の方を窺《うかが》うと、扉の側《そば》で、銀子がこちらを見ていた。  その口が動く。また三文字だった。  バカね。  本日のテスト終了を報《しら》せるチャイムが鳴ると、教室内で一斉《いつせい》にため息が漏れた。テスト用紙が回収され、監督役の教師が退出。それに続いて教室を出て行くクラスメイトたちを見ながら、真九郎は硬《かた》くなった体をほぐすように肩を揉《も》んだ。これにて期末テストも終了。周りのクラスメイトたちは素直に喜んでいるが、欠席で二科目も落としてしまった真九郎としては、まだ気が重い。銀子の席を振り返ってみれば、彼女はノートパソコンを胸に抱え、教室を出るところ。真九郎は慌《あわ》てて後を追う。  このまま帰っても気が重いので、せめて今日の昼食は銀子と食べることにしよう。  真九郎が隣に並ぶと、それを見た銀子が「はい」と何かを手渡す。  千円札だった。 「何だよ、これ?」 「日本銀行券。いわゆる紙幣《しへい》よ」 「いや、そうじゃなくて……」 「購買部、意外と混雑するから。よろしくね」  真九郎は考える。 「えーと、もしかして…………俺に、昼飯を買って来いってことか?」 「そう」 「おまえさ、それは自分で……」 「質問」 「えっ?」 「先週、『日本史と英語のノートを貸してくれ』って泣きついて来た少年にノートを貸し、おまけにテストのヤマまで教えてあげた心優しい少女は、誰かしら?」 「それは……」 「その少女のせっかくの好意を無駄にしたおバカな少年は、誰かしら?」 「……心優しい少女は村上銀子さんで、おバカな少年は紅真九郎です」 「はい、よくできました」  まるで幼稚園児でも相手にするかのように、銀子は大きく頷いた。  そして階段を指差し、素《そ》っ気無《けな》く告げる。 「購買部はあっち。買ってくるのは、いつものアンパンと牛乳。何か疑問点は?」 「……ありません」 「じゃあ、急ぎなさい」  横暴な幼なじみに、真九郎は静かに一礼。  そして彼女の希望通り、急いで購買部に向かうことにした。  友達がたくさんいる方が幸せだ。  そう信じていた時期が、真九郎にはある。多分、学校の先生がそんなことを言っていて、真《ま》に受けたのだろう。だから真九郎は、友達をよく作った。気の合いそうな子には声をかけたし、話題に乗り遅れまいとテレビやマンガやゲームに熱中したし、遊びに誘われたら必ず行った。しかし、そうしてできた友達も、真九郎が家族を失ったことを契機に、徐々《じょじょ》に距離を置くようになっていった。凶悪なテロ事件に見舞われた真九郎という存在を、子供ながらに「不吉なもの」と感じたのかもしれない。それでも何人か、変わらず接してくれた者もいたのだが、真九郎が崩月《ほうづき》家に引き取られると、やはり離れていった。テレビを観《み》ず、マンガを読まず、ゲームもやらない。学校が終わればすぐに帰宅し、何度遊びに誘っても「修行」を理由に断る。真九郎のそんな生活は、彼らからすれば意味不明。そんな奴《やつ》と付き合っても、面白《おもしろ》いわけがない。そうしてみんな、いなくなった。残ったのは、村上銀子だけだった。真九郎とずっと友達でいてくれたのは、村上銀子だけだった。初めての友達が、最後まで残った。どうして自分から離れないのか、と真九郎は訊いてみたことがある。銀子はどうでも良さそうな顔で、こう言った。「そういうことは、言葉にしなくてもいいのよ」と。  使用する者が二人しかいない新聞部の部室は、普段からして騒音と無縁《むえん》だが、今日は一段とその傾向が強かった。期末テストが終わった解放感で、大半の生徒が帰ったからだろう。たまに廊下を走る誰かの上履きの音が響く程度で、実に静かな昼下がり。  昼食を終えてからずっと新聞を読んでいた真九郎は、紙面から顔を上げ、大きく伸びをした。新聞を膝《ひざ》に置き、気分転換に窓の外へ目をやる。水滴のついたガラスの向こうでは、葉の枯れた木々が風に揺れていた。  壁のカレンダーは十二月。季節は、もうすっかり真冬だ。  予報によれば最高気温は八度で、今日はかなり冷えるのだが、室内は快適だった。部室の床に置かれた、石油ファンヒーターのお陰《かげ》である。作動音も静かな最新式で、もちろん学校の備品ではなく、寒がりの銀子が持ち込んだもの。その銀子はといえば、アンパンと牛乳を机の上に放置し、いつも通りノートパソコンと睨めっこ中。表情は窺《うかが》えないが、キーを打つリズムからして、機嫌はそれなりに直ったのだろう。  今年も、あと半月余りか……。  外をぼんやり眺《なが》めつつ、真九郎がそんなことを思っていると、キーを打つ音が消えた。アンパンの袋を手に取り、椅子《いす》をクルリと回転させて、銀子がこちらを向く。滑《なめ》らかな動き。職員室にある教師用の物よりずっと座り心地が良さそうな、革張《かわば》りの椅子。これも、銀子が自分で部室に持ち込んだものである。いつの間に、と真九郎が驚くと、彼女は澄《す》まし顔で「あんたと違って、世の中は常《つね》に進歩してるのよ」と言っていた。 「で、今日はどうしたの?」  足をゆったりと組みながら、銀子は小さく千切《ちぎ》ったアンパンを口に入れる。  この部屋の主らしい貫禄《かんろく》だな、と真九郎は思った。 「どうしたって、何が?」 「どうして遅刻したの?」  やや詰問《きつもん》口調なのは、さっきのテストの件が、まだ微《かす》かに燻《くすぶ》っているからか。  真九郎は頭の上で指を組み、少し考えてから返答。 「……まあ、いろいろあってさ」 「さっきのメールの相手は?」 「そっちも、いろいろあってさ……」  どちらも素直に話せば小言を言われそうなので、真九郎は適当に省略。  その歯切れの悪さに不審《ふしん》感を覚えたのか、銀子はしばらくこちらを見据《みす》えていたが、それ以上は追及してこなかった。  メガネの奥の目を細め、ため息混じりに話題変更。 「裏で、コソコソ何やってるのか知らないけど……。あんた、支払いの方は大丈夫なんでしょうね?」 「支払い?」 「先月の支払いよ。まだ振り込まれてないわ」 「あー…………その件ね」  真九郎は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながらストローを銜《くわ》え、紙パックのウーロン茶を飲んだ。中身は既に空《から》だが、飲むふりを続ける。  すっかり忘れていた。  情報屋である銀子への支払いは、月末の一括《いっかつ》払い。しかしそれを、真九郎は滞納中なのだ。払いたくとも払えない、というのが正直なところ。つい先日、西里《にしざと》総合病院を舞台にした大きな事件に関《かか》わったりもしたのだが、それは成功|報酬《ほうしゅう》という約束であったことから、一銭も受け取らなかった。そしてそれ以降、仕事はない。  つまりここしばらく、揉《も》め事処理屋としての収入はゼロ。  今現在、真九郎の懐具合は季節と同じく真冬といえるだろう。  さて、どうやってお茶を濁そうか?  長い付き合いであることだし、多少の配慮は期待してもいいと思う。 「なあ、銀子……」 「公私混同はしないわよ」  真九郎の愚《おろ》かな思惑《おもわく》は、あっという間に切り捨てられた。  さすがは村上|銀次《ぎんじ》の孫娘。  相手が幼なじみでも、仕事に関して折れる気はないらしい。  言葉に詰まる真九郎を睨みつけ、彼女は続ける。 「料金の踏み倒しなんて、絶対に許さないからね。プロとして、きっちり回収させてもらう。お金がないなら、体で払いなさい」 「体って……」 「今年の冬休みは、うちの店でバイト」  ……そうきたか。 「毎日通うのは面倒《めんどう》でしょうし、うちに住み込みでいいわ。ちょうど一部屋空いてるから、そこを使えばいい。布団は貸してあげるし、三食も付けてあげる。朝の仕込みから閉店後の掃除まで、馬車馬のように働きなさい」 「馬車馬ね……」  一心不乱に労働せよ、ということか。微妙に公私混同のような気もするが、巧《うま》い回収法ではあるだろう。イメージもしやすい。少なくとも真九郎には、銀子にこき使われる自分の姿が労せずして目に浮かぶ。彼女は有言実行型の人間であり、一度口にしたからには冗談で済ます気はないはずだ。  ぐうの音《ね》も出ない真九郎に、銀子は静かに問う。 「それで、払える当てはあるの?」 「あー、まあ、なんというか……」 「今学期一杯までなら、待ってあげるわ。それまでに……」  小さな電子音が鳴った。  銀子の背後にあるパソコン。メールの着信音だ。椅子を回転させ、彼女はマウスをクリック。十秒ほど画面を凝視《ぎょうし》してから、「へえ……」とつぶやく。銀子が祖父から引き継いだ情報|網《もう》は世界規模であるというし、何か珍《めずら》しい情報でも飛び込んできたのだろう。真九郎は画面を覗《のぞ》き込みたい誘惑に駆《か》られたが、やめておいた。お互いにプロ。節度は守るべきだ。自分の仕事について銀子が詮索《せんさく》しないのと同じく、銀子の仕事についても詮索してはいけない、と思う。  壁の時計を見やると、お姫様の迎えにはちょうどいい時間だった。銀子の指が滑らかにキーを叩き始めたので、真九郎はこの隙《すき》に逃げることにする。これから先の話は、だいたい予想がつくのだ。道筋はどうあれ、結論は「あんたに揉め事処理屋は向いてない」か、「あんたがいくら頑張っても柔沢紅香《じゅうざわべにか》にはなれない」か、「さっさと転職しなさい」になるだろう。真九郎に進歩がないのだから、必然ともいえるのだが。  真九郎は椅子からそっと腰を上げ、忍び足で扉に向かった。しかし、扉まで残り二十センチのところで、「待ちなさい」と銀子の声。恐る恐る振り返ると、席を立った銀子から「これ」と言ってノートを押しつけるようにして渡された。ノートは二冊。先週、真九郎が借りていた、日本史と英語のノートだ。借りたときと違うのは、カラフルな付箋《ふせん》がいくつも飛び出ていること。 「あんた、どうせ追試でしょ?」 「まあ、多分………」  真九郎の成績は、平均点を上回ることが滅多《めった》にない。日本史と英語も中間テストで平均を下回っていたので、今日の失敗により、追試はまず確実だろう。 「出そうな箇所には印《しるし》を付けておいたから、しっかり頭に入れること。それと、今夜は冷えるだろうから曖かくして寝なさい」 「……うん、ありがと」 「風邪《かぜ》なんか引かれると、支払いが滞《とどこお》るからね」 「……そうだな、気をつけるよ」  真九郎はここ数年、病気一つしたことはなく、おそらくこれから先も無縁だろうが、幼なじみの心遣いには素直に感謝。村上銀子は、相変わらず飴《あめ》と鞭《むち》の使い方が絶妙だ。どんなに説教をされても、何故《なぜ》か気持ち良く終わってしまう。  真九郎が思わず笑みをこぼすのを見て、銀子はわざとらしく厳《きび》しい表情を作った。  そして、それが彼女の義務であるかのように、最後に忠告。 「真九郎。まだ仕事を続けるつもりなら、気をつけなさいよ。この世界には、冷たい真実と、温かいウソしかないんだからね」 「優しい現実は?」 「それは、幻想というのよ」  あなたにとって、気楽な場所は何処《どこ》ですか?  もしも誰かにそう問われたら、真九郎は取り敢《あ》えず「学校」と答えると思う。  適当に力を抜き、適当に時間を過ごす。真九郎にとって、学校とはそういう場所である。そもそも真九郎は、学校生活というものにあまり期待を抱いてはいなかった。昔からそうだったわけではない。小学校に入ったばかりの頃は、学校は楽しいところで、毎日が騒がしくも忙しかった。自転車の後ろに銀子を乗せ、近所にある中学校を一緒に覗《のぞ》きに行ったときの気持ちも、よく覚えている。幼い自分の目には、制服姿の生徒たちがとても立派《りっぱ》に映り、僕と銀子ちゃんもあんなふうになるのかあ、と少し感動したものだ。  全て、昔のことである。家族を亡くす前のことである。  八年前のあの日を境《さかい》に、真九郎の心からそういった純粋さは失《う》せてしまった。どうでもよくなってしまった。だから今朝の遅刻も、それに伴《ともな》う追試のことも、本当はたいして真剣には捉《とら》えていない。もっとも、それを銀子に言ったところで、「だから何? それでもあんたは高校生なんだから、ちゃんとやりなさい」と叱《しか》られるだろう。  廊下を歩きながらそんなことを思い、真九郎は小さく欠伸《あくび》を漏らした。部室にいるときは静かに感じたが、少し歩いてみると、校内にはそれなりに生徒が残っていた。空き教室では男子たちが大声で騒ぎ、廊下の端では女子たちが談笑し、階段の踊り場ではカップルが仲良く肩を寄せ合い、窓から見える校庭ではサッカー部が早くも練習を始めている。  みんな青春してるなあ、とくだらない感慨《かんがい》に浸《ひた》りつつ、また欠伸を漏らした真九郎は、廊下を進む一団を見て足を止めた。委員会活動か何かだろう。十人ほどのグループの中に、崩月夕乃《ほうづきゆうの》がいたのだ。どれだけ集団に紛《まぎ》れようとも、夕乃を見つけるのは容易。整った外見が目立つという単純な理由もあるが、彼女の仕草《しぐさ》はとにかく洗練されているからだ。立ち姿一つをとっても、「綺麗《きれい》な立ち方のお手本」として教科書にでも載せたいほど。話し方も、歩き方も、座り方も、箸《はし》の運び方でさえも、彼女は見事に洗練されている。ゆえに自然と、何処《どこ》にいても目を引くのである。  夕乃はプリントの束を胸に抱え、周りの生徒たちと会話中だった。彼女が微笑《ほほえ》むと、みんなも声を上げて笑う。何とも穏《おだ》やかな図。真九郎は夕乃に挨拶《あいさつ》するか少し迷ったが、黙って見送ることにする。崩月夕乃は人気者。しかも周りにいるのは、二年生や三年生ばかり。そこに一年生の自分が近づいて気安く接するのは、かなり勇気の要る行為だ。  夕乃たちが階段を上がっていくのを見届けてから、真九郎は下駄箱へ。しかし、歩き出して間もなく、天井付近のスピーカーより校内放送。 『一年一組の紅くん。一年一組の紅くん。至急、校長室まで来てください』 「……へ?」  真九郎は思わず間抜《まぬ》けな声を発し、その場に立ち止まった。三十秒ほどスピーカーを見上げていたが、続報はなし。  一年一組の紅くんといえば、自分以外の誰でもなかった。  俺が校長室に……呼び出し?  放送で呼び出されること自体、真九郎には珍しいが、場所が校長室となると前例がない。加えて今の放送の声は、真九郎の担任教師のもの。  いったい何事か。  のんびりしていた空気が一気に吹き飛び、真九郎は自然と胸を押さえる。  担任から、校長室まで来いという命令。これに楽しい想像が働く生徒は稀《まれ》だろう。  今朝の件で担任から直々《じきじき》のお叱り、ではないと思う。担任の園田広美《そのだひろみ》は、基本的に鷹揚《おうよう》な女性。説教など滅多になく、教室で堂々とノートパソコンを使う銀子を見ても「村上さんは、いつも熱心ね」と、見当違いな反応をする人物なのだ。  別の理由で考えられるものといえば。  ……まさか、揉め事処理屋のことがバレたのか?  星領学園でそのことを知るのは、村上銀子と崩月夕乃のみ。彼女たちから他に漏れることは考えられないが、何処かで噂《うわさ》を聞きつけられる可能性は皆無《かいむ》ではないだろう。校則が許容しているのは、一般的なアルバイトのみ。時には違法行為にも手を染める揉め事処理屋が、その範疇《はんちゅう》に含まれるはずがない。良くて厳重注意。悪くて停学。最悪の場合は退学か。  唐突な危機に頭を抱えつつも、真九郎は動くことにした。近くの階段を下り、人通りの少ない一階の廊下をゆっくり前進。校長室の手前二メートルのところで、数回深呼吸。覚悟を決めて扉の前に立つと、中から校長の笑い声が聞こえてきた。先客がいるらしい。少し躊躇《ちゅうちょ》したが、真九郎は硬い動作でノック。そして扉に手をかけ、「失礼しまーす」と中へ。  一瞬で、肩から力が抜けた。  校長室にある応接用のソファに腰掛けているのは、全部で三人。中央の黒檀《こくたん》のテーブルには人数分のお茶と饅頭《まんじゅう》が置かれ、全員の表情からしても、和《なご》やかな会話が行われていたことは容易に察しがつく。だがそこに、高校の校長室にはあるまじき違和感が二箇所。一つは、テーブルの端に置かれた赤いランドセル。もう一つは、校長の向かい側のソファに腰掛けている、半ズボン姿の幼い女の子。  彼女は真九郎を見つけると、口一杯に饅頭を頬張《ほおば》ったまま「ひんくおー!」と手を上げた。本人は、「真九郎!」と言っているつもりなのだろう。それを見て笑っていた園田が、「紅くん、急に呼び出してごめんなさいね」と謝りながら席を立つ。 「それで、用件なんだけど……」 「あー、はい……わかります」  真九郎はすぐに理解できた。  まさに、見ればわかるという状況だ。 「彼女、とても面白い子ね。紅くんの何なの?」 「何でしょうかね……」  なかなか鋭い質問だなと思いながら、真九郎は曖昧に笑って誤魔化《ごまか》した。  この幼い少女がいったい何者なのか?  それに関してなら、真九郎はよく知っている。  とてもよく知っている、と強調してもいい。  彼女は、この国で最も力を持ち、最も敬意を払われる表御三家の一つ、 〈九鳳院《くほういん》〉の娘。  九鳳院|紫《むらさき》である。  口の中の饅頭をお茶で流し込むと、紫は再び手を上げ、元気良く言った。 「真九郎! 今日は、わたしから迎えに来てやったぞ!」 「……それはどうも」  紅真九郎と九鳳院紫の関係は、かなり説明しづらいものだ。  十六歳と、七歳。  高校一年生と、小学一年生。  新米揉め事処理屋と、世界的な大|財閥《ざいばつ》の令嬢。  そんな要素をいくら並べてみても、二人の仲を分析《ぶんせき》するのは困難だろう。  真九郎自身も、実はよくわからなかった。自分にとって彼女がどういう存在なのか、言葉では上手く表現できないのだ。夕乃は、「歳《とし》の離れた友人ですよね」と言う。銀子は、「あんたの娘みたい」と言う。真九郎は、そのどちらも少し違うような気がする。  では、正しくは何と表現するのだろう?  何度も考えたけれど、答えはまだ見つからない。  ハッキリしているのは、紅真九郎が、九鳳院紫との今の関係を気に入っているということだけだ。友人よりは近く、娘には遠い、その曖昧で不思議な関係を、真九郎は本当に気に入っている。大切にしたい、と思う。  奇妙な出会いから始まり、いつしか生まれたこの絆《きずな》は、ちょっとした奇跡なのだから。 「世界で一番大きい動物は、なーんだ?」 「シロナガスクジラ」 「正解! じゃあ、ひらがなとカタカナ、先にできたのはどっちだ?」 「んー、カタカナだろ」 「また正解だ! 真九郎は、何でも知っているな」 「そうでもないよ」 「では、次の問題にいくぞ! えーと、新婚カップルがホテルの部屋に入って最初にすることは、なーんだ?」 「………」 「どうした、真九郎?」 「……紫、そんな問題が本に載ってるのか?」 「ちゃんと載ってるぞ。答えは何だ?」 「あー、んー……」 「ぶっぶーっ、時間切れ! 正解は、『テレビをつける』だ」 「……ああ、なるほど」 「しかし、よくわからんな。そもそも、この『新婚カップル』というのは何なのだ?」 「結婚したばかりの男女のことだよ」 「ほう……。では、いずれわたしと真九郎も、ホテルの部屋でそうするということか。だが、なぜテレビをつける?」 「それは、やっばり、お互いに恥ずかしいからだろ」 「どうして恥ずかしいのだ?」 「さあ、どうしてだろうなあ……。紫、もうちょっと足を伸ばしてくれるか?」 「む、わかった」  紫は素直に頷くと、小さな足をひょいと前に伸ばし、「さて、次の問題は……」と再び本をめくった。本のタイトルは「なぜなに探偵団』。ページの半分がイラストで、文字も大きい、子供向けの雑学本だ。学校の図書室で借りたというそれが紫は気に入ったらしく、真九郎はさっきから質問攻めに遭《あ》っていた。多少なりとも対応できるのは、博識な幼なじみのお陰だろう。本に見入る紫に苦笑しつつ、真九郎は靴下を掴《つか》み、彼女の足に履かせることにする。  二人が腰掛けているのは、ゆったりした作りの後部座席。そしてスモークガラスの向こうを流れるのは、賑《にぎ》やかな街の景色。  ここは九鳳院家専用車、その車内である。リムジンをベースに改装された車は、相変わらず居住性が抜群《ばつぐん》だった。路面の振動はほとんど届かず、エンジン音も穏やか。カーブの遠心力さえ最小限にしか感じないのは、運転手を務める騎場大作《きばだいさく》の腕だろう。名家の運転手に求められるのは「ただの安全運転」ではなく、「大切な主《あるじ》を運ぶ」という意識。騎場という男は、それを完壁《かんぺき》に遵守《じゅんしゅ》しているのだ。  そんな車内で今、真九郎が何をしているかといえば、お姫様の着付《きつ》けを手伝い中。毎度のことなので、それは別にかまわない。しかし今日の真九郎は、彼女に言うべきことがあった。  暢気《のんき》にページをめくる紫を見ながら、真九郎は口を開く。 「紫、さっきのことだけど……」 「みんな親切だった。星領学園は、いい学校だ」 「まあ、それはそうなんだけど……」 「茶菓子も美味《うま》かったしな。あと、学校での真九郎の様子を聞けたのが良かった」 「えっ、何て言ってた?」 「『紅くんは、クラスでも大人しくて真面目《まじめ》な子なのよ』、と言ってたぞ」 「……あ、そう」  クラスでも目立たない地味な子なのよ、と表現しないところが担任なりの気遣いか。  真九郎は小言を言おうとしたのだが、紫の笑顔を見ているうちに何だかバカバカしくなり、呑《の》み込んでしまった。まあいいか、と思う。結局のところ、誰も迷惑していないらしいのだから。  紫の証言によれば、さっきの経緯《いきさつ》はこうである。  たまたま早く掃除当番が済んだ紫は、自分の方から真九郎を迎えに行こうと思い立ち、星領学園に乗り込んだ。真九郎の居場所はわからなかったが、彼女は慌《あわ》てなかった。広い校内を無駄に歩いて捜し回る、ということもしなかった。早くて確実な方法を選択。彼女は真《ま》っ直《す》ぐ校長室に向かうと、扉を開き、昼下がりの一服を楽しんでいた校長にこう言ったのだ。 「わたしは九鳳院紫だ。紅真九郎を呼んでくれ」  来年で八十歳になる校長は、さぞかし面食《めんく》らったことだろう。それでもこの横柄《おうへい》な要求に思わず従ったのは、九鳳院という名前の力と、他人に命令を下す紫の姿があまりに堂に入っていたからか。校長はすぐ職員室に連絡を取り、紅真九郎という生徒がいるか調べると、担任の園田に呼び出すよう指示。そして真九郎は、校長室に赴《おもむ》くことになったわけである。  そういう場合は事前に報せて欲しいと真九郎は思うが、「学校にいるときは電話もメールもなるべく禁止」と言ったのは自分であり、それを守った紫を叱れる筋合いでもない。  校長と園田が、こちらの事情を詮索してこなかったのがせめてもの幸い。相手は天下の表御三家。何か事情があると察して、深入りしない方がいいと思ったのだろう。大人の判断というやつだ。 「紫、今度は背中を向けてくれるか?」 「わかった」  紫は本を開いたまま、座席の上で器用にクルリと回転。真九郎はドレスの背中にあるボタンを嵌《は》め終えると、櫛《くし》を手に取った。細く滑らかな彼女の髪を梳《と》かし、白いカチューシャを着ける。本日の礼装は涼しげな青。薄い花びらを何枚も重ねたようなデザインの、イブニングドレスだ。彼女の脱いだ服や下着を丁寧《ていねい》に畳み、スーツケースに入れて座席の下へ収納したところで、ようやく着替えは終了。「できたぞ」と肩を叩いてやると、紫はパタンと本を閉じ、まずドレスを見下ろした。次に靴を見て、それから頭のカチューシャに指で触れ、最後に、大きな瞳《ひとみ》で真九郎をじっと見つめる。  無言だが、何かを期待する眼差し。  その意味がわからないほど、紅真九郎も不粋《ぶすい》ではない。 「大丈夫。今日も可愛《かわい》いよ」 「本当か?」  真九郎がそれに頷くと、紫は一気に頬を緩《ゆる》ませ、その場で小さく跳《は》ねた。  そして真九郎の膝の上に、飛び乗るようにして移動。 「おまえ、せっかく綺麗な格好《かっこう》してるんだから、もう少しおしとやかに……」 「うるさい! わたしは九鳳院紫だ! お嬢様だぞ!」 「……失礼いたしました。では、お嬢様のご希望通りに」 「うむ、それで良い」  幼い暴君はニッコリ笑い、真九郎の両手をシートベルトのようにして自分のお腹《なか》の前で組ませると、そこに自分の手を重ねた。小さな足をパタパタ動かしながら、続ける。 「ちなみに、今日の下着は真九郎の好きな白だ!」 「あー、さっき見たよ」 「もっと見るか?」 「……いや、結構」  いつも快活な紫だが、今日は一段と元気。学校で合流してから、ずっと上機嫌だった。真九郎と会うのは数日振りなので、それが嬉しいのだろう。  九鳳院家の子女として、紫は相変わらず忙しい日々を過ごしているようなのだ。  放課後はほとんど毎日予定が組まれ、招かれる場も実に多様。財界人の誕生会や、某国大使の晩餐《ばんさん》会。海外の要人との会食や、名家の子供だけが集《つど》う会合。さらに記念碑の除幕式などもあるそうで、まさに東奔西走《とうほんせいそう》の活躍中である。真九郎からすると息が詰まりそうなスケジュールだが、紫本人がけろっとした顔でこなしているのは、やはり血筋ゆえのものだろう。騎場から聞いた話でも、彼女は社交界のマナーをあっという間に身につけ、何処《どこ》でも堂々と振る舞っているという。元から備わっていた資質が、環境に応じて開花したわけだ。 「紫、何か困ったことはないか?」  概《おおむ》ね順調なのは承知《しょうち》しているが、真九郎は一応そう尋ねてみた。これは会うたびに尋ねる。真九郎にとって、半ば義務のようなものだ。  紫は腕を組んで考え込み、やや偲《うつむ》きながら、ぽつりと漏らした。 「……少し、うっとうしいな」 「うっとうしい?」  パーティーや会食などの行く先々で、彼女は注目の的《まと》。老若男女《ろうにゃくなんにょ》、様々な者たちが近づいてくる。とにかくひっきりなしに話しかけられるようで、そういった過度の干渉《かんしょう》が「少しうっとうしい」ということになるようだった。  真九郎は状況を理解し、少し考えてから言う。 「それはさ、みんな、おまえと友達になりたいって思ってるんだよ」 「わたしとか?」 「そう。だからみんな、おまえとたくさん話をしたいんだ」  みんな、というのが言い過ぎなのは真九郎もよくわかっていた。  九鳳院家秘蔵の姫ともいえる紫は、やがて大財閥の一角を担《にな》い、世界的な重要人物となる運命。だから彼女は注目される。その利用価値を見越して、今のうちに縁を作っておこうと目論《もくろ》む者たちが群がる。それは避けようのない流れであり、大半は、何か下心を持っているだろう。でも、中には違う者もいると真九郎は思う。この少女の愛らしさに惹《ひ》かれ、純粋に話してみたいと感じた者もいると思う。そして、そういう者たちの何割かは、ひょっとすると将来、彼女の味方になってくれるかもしれないのだ。だから今は、いろんな人に会った方がいい。いろんな人に会って、たくさん話をした方がいい。真九郎は結局、一人を残して友達には去られてしまったけれど、九鳳院紫なら、大切な友達をいくらでも作れるはずだから。  紫は五秒ほど「むう」と捻《うな》っていたが、やがて納得したようにつぶやく。 「真九郎が言うのだから、きっとそうなのだろうな……。では、これからはもう少し優しくしてやるか」 「それがいいよ」  柔らかな彼女のお腹に手を当てながら、真九郎はそっと微笑んだ。  ちなみに、九鳳院紫嬢の本日のご予定は、夕方からクラシックのコンサート。写真入りのパンフレットによると、会場は、国内|屈指《くっし》の設備を誇る東京グランドオペラホール。曲目は、バッハの『マタイ受難曲』。指揮者はポーランドの巨匠で、その来日記念公演だ。 「真九郎も、わたしと一緒に行くか?」 「あー、いや、俺は招待されてるわけじゃないし……」 「招待状くらい、すぐに用意させるぞ? 礼服や靴も、用意させよう」 「……悪い。せっかくだけど、遠慮しておくよ」  パンフレットを見る限り、招待客は主に特権階級。  ここは慎《つつし》むのが賢明である。 「それにしても、おまえ、クラシックなんてわかるんだ?」 「うむ、淑女のたしなみだからな。音楽というのは……」  紫の声が、不意に途切れた。彼女は目を丸くし、口をポカンと開放。その視線が向かうのは、信号で停《と》まった窓の外。怪訝《けげん》に思いつつ真九郎もそちらを見やると、近くの歩道を、仮装した男が通り過ぎるところだった。多分、何かのバイトだろう。赤い衣装に白い髭《ひげ》。肩には大きな袋を担ぎ、手には宣伝のプラカード。お腹には詰め物までしており、なかなか本格的なサンタクロースだ。  ……ああ、もうそんな時季だっけ。  期末テストが済み、これで追試も終わればあとは適当に授業を受けて冬休みだ、などと暢気《のんき》にかまえていたのだが、それだけではない。十二月といえば、クリスマス。真九郎が特に意識することもなかったのは、心に余裕がなかったということか。  信号が変わり、車が動き出しても、紫はしばらくサンタクロースを目で追っていた。やけに熱心な様子。ただの仮装でも、街を出歩くことが少ない彼女には珍しいのだろう。  真九郎はそう解釈したが、大間違い。  不思議そうな顔で、紫はこう言ったのだ。 「……真九郎」 「ん?」 「あれは、いったい何だ?」 「サンタクロースだよ」 「さん、たくろーす?」  まるで初めて口にするようなぎこちない発音に、真九郎は戸惑《とまど》った。  まさか知らない、ということはあるまい。  サンタクロースは、世界で最も有名な老人。  幼稚園児でも知っているのだ。 「紫、クリスマスってわかるよな?」  念のため確認してみると、彼女は記憶を探るように足元を見てから、首を横に振る。  九鳳院紫は、サンタクロースを知らない。クリスマスも知らない。  そんな非常識なことがあり得るのか?  真九郎は冷静に考え、すぐ答えに達した。  紫が生まれ育ったのは、九鳳院家の暗部、|奥ノ院《おくのいん》。俗世間《ぞくせけん》から隔離《かくり》されたそこでは、システムの障害になる『不要な知識』は全て遠ざけられていたという。その『不要な知識』の中に、クリスマスなどの行事が含まれていた可能性は高い。  だから紫は、何も知らないのだ。  真九郎は奥歯を噛《か》み締め、心の中で拳《こぶし》を握った。今ここに九鳳院|蓮丈《れんじょう》がいたら、真九郎は胸倉《むなぐら》を掴《つか》んでいただろう。制止する近衛《このえ》隊を振り切ってでも、そうしただろう。パーティーやコンサートに連れ回すのは、仕方がない。社交界の礼儀作法を身につけさせるのも、当然だ。それが上流に属する者の義務だということも、理解はできる。でも、それより先に、子供には教えるべきことがあるじゃないか。この世界にある、たくさんの楽しいこと。子供には、それを知る権利がある。大人には、それを教える義務がある。それなのに、生まれてからずっと、紫は知らなかった。奥ノ院を出てからも、九鳳院家は彼女に教えなかった。そんなものはどうでもいいと、くだらないと、そう判断したのか。  ふざけやがって……。  内心で罵倒《ばとう》し、真九郎はその不愉快《ふゆかい》な思考を一時|遮断《しゃだん》。頭に上った血を、どうにか抑える。ここは怒るところでも、悲しむところでもない。もちろん哀《あわ》れむところでもない。どこのどいつをぶん殴っても、彼女の時間は戻らないのだ。  真九郎は静かに息を吐き出し、呼吸を整える。  そして膝の上の紫に向け、囁《ささや》くように言葉を発した。 「……紫。毎年、十二月には、クリスマスってイベントがあるんだよ」 「イベント?」 「ちょっとしたお祭り、みたいなもんかな」  彼女はもう、囚《とら》われの身ではない。  知らないことがあれば、自分が教えてあげればいい。  それが、今の自分にできる最も前向きな行動だと、真九郎は思う。 「十二月二十五日がクリスマス、二十四日がクリスマス・イブと呼ばれていて、その日の夜にサンタクロースが……」  かつて両親に教えられたことを思い出しながら、真九郎は説明。初めての経験なので少し緊張したが、紫は「ほう……」と興味を示し、黙って聞き入っていた。子供というのはお祭りごとが大好きであり、彼女もその例外ではないのだろう。  大人の話が終われば、次は子供の質問時間。  紫は、次々と疑問をぶつけてくる。 「さっき道を歩いていたのが、サンタクロースという者なのか?」 「あれは、衣装を真似《まね》てるだけの、別人だよ」 「じゃあ本物は?」 「えっと……普段は、北方のグリーンランドに住んでるんだと思う」 「何歳だ?」 「んー……お爺《じい》さん、だな」 「どうやって、一晩で世界中を回るのだ?」 「あー、サンタクロースは、空を飛ぶソリを持ってるんだよ。それに乗って、世界中を回るんだ」 「……空を飛ぶ、ソリ?」 「八頭のトナカイが引いてる、立派な……」 「重力はどうしたのだ?」  そこは触れるなよ。  幼い子供を持つ親たちの苦労が、真九郎は少しだけ理解できた。これは大変だ。  どうにか頭を働かせ、答える。 「それは、さ…………魔法なんだ」 「魔法?」 「サンタクロースは、魔法を使えるんだよ」  さすがに苦しいだろうか。  真九郎はちょっと不安を抱くも、反応は意外なものだった。  紫はいたく感心した様子で、「なるほど!」と声を上げたのだ。 「それなら、たしかに空も飛べる! おかしい点がいくつもあると思っていたが、魔法を使えるなら全て解決だな!」 「……まあ、そうだな」 「魔法を使い、世界中を飛び回る老人か……。世の中には、凄《すご》い奴がいるものだ」 「うん、そうだな」  興奮《こうふん》気味の紫に相槌《あいづち》を返しながら、真九郎は微笑む。  どうやら魔法は、彼女の中ではきちんと論理的なものであるらしい。  時折、驚くほど聡明かと思えば、絵本に書かれたお化けの話をすんなり信じたりもする。  そういう不思議な純粋さが、九鳳院紫にはあるのだ。奇跡的なバランスだろう。  彼女のそんなところが、真九郎はとても愛《いとお》しいと思う。 「わたしが奥ノ院にいるときは来てないようだったが……まあ、無理もないか。あそこは秘密の場所だ。見つけるのは、魔法でも難しかろう」  他の問題も、紫は自己解決。  彼女の柔軟《じゅうなん》な思考は、サンタクロースの存在を受け入れてくれたようだった。その様子に安堵《あんど》した真九郎は、そこでふと思いつく。自分には珍しい名案。  ああそうしよう。それがいい。 「紫。今年のクリスマスは、サンタクロースが来ると思うぞ」 「本当か?」  輝く瞳で見つめられ、真九郎は笑顔で頷く。 「今年は、きっと来るよ」 「じゃあ遅くまで起きてれば、サンタクロースに会えるのか?」 「それはどうかな? 夜更《よふ》かしする子供の家には、来ないらしいんだ」  むむむ、と困ったような顔になる紫を見て、真九郎は声を出して笑ってしまった。  九鳳院紫の幸せに貢献するのは、紅真九郎の義務であり希望。  やるべき事と、やりたい事が、自分は完全に一致している。  だから、さっそく考えてみよう。  今年のクリスマス。  自分はこの子に、何を贈ろうか?  車で近所の駅まで送ってもらった真九郎は、そこで紫と別れ、商店街で買い物をしてから五月雨荘に帰宅した。制服からエプロン姿に着替えると、すぐに夕飯の支度《したく》に取りかかる。今日の献立《こんだて》は特製ミートソースのパスタ。真九郎は鍋《なべ》を用意し、まずオリーブオイルでニンニクを炒《いた》め、そこにタマネギのみじん切りやピーマンなどの野菜を追加して、さらに妙める。頃合《ころあい》を見て挽《ひ》き肉と鳥のレバーを入れ、よく火が通ったところでホールトマトと水、そして固形ブイヨンなどを投入。最後に調味料で、軽く味を調《ととの》えた。  掃除から縫《ぬ》い物まで、一通りの家事をこなす真九郎だが、その中でも料理は好きな方だった。多分、先生の教え方が良かったのだろう。一人暮らしを始める真九郎に、手取り足取り指導してくれたのは崩月夕乃。この特製ミートソースも、彼女から習ったレシピだ。どのへんが特製かというと、細かく刻《きざ》んだ鳥のレバーを使う点。 「美味《おい》しいものを食べると、幸せですよね? だから料理は、幸せを作ってるのと同じなんですよ」  夕乃の教えを思い出しながら、真九郎は鍋をじっくり火にかけることにする。その隙に、今朝できなかった部屋の掃除を済ませ、洗濯物を取り込み、銀子から借りたノートに目を通し、それから再び台所へ。鍋の具合を確かめるといい感じだったので、あとはしばらく、火加減を見張ることにした。  お玉を握って立ち、紫との会話を振り返ってみる。  十二月二十四日はクリスマス・イブ。十二月二十五日はクリスマス。  そして、イブの夜に世界中を飛び回るサンタクロース。  それに対する紫の反応は予想外だったが、真九郎は自分の行動も少し予想外だった。幼い子供を相手に、まさか自分がクリスマスの説明をする日が来るなんて、思いもしなかったのだ。  紅真九郎にとってのクリスマスは、七歳の頃に終わっていた。幼い子供の思い描くクリスマスがあったのは、そのときまで。真九郎はその後で家族を失い、サンタクロースの幻想も強制的に失ったのだ。家族と過ごした最後のクリスマスは鮮明に記憶しているけれど、再生すれば自分がどうなるのかわかっているので、真九郎がそれをすることはまずない。  紅真九郎のクリスマスは七歳で終わり、九鳳院紫は七歳から始まる。  面白い偶然、とでもいうべきか。今年は紫にとって初めてのクリスマスであることだし、何か良い物を贈ってあげたいと思う。  でも、何を贈ればいいだろう?  実は帰り道もずっと考えてみたのだが、真九郎は何故か思いつかなかった。  それは、もしかしたら、二人の曖昧な関係が原因なのかもしれない。  会えば笑い合い、とても親しいけれど、友達とは少し違う女の子。  そんな子には、何を贈るものなのか?  クリスマス・イブまで、残り二週間程度。それまでに決められるといいのだが。 「……あ、やばい」  気がつくと、鍋が派手《はで》に煮立っていた。  真九郎は慌ててお玉を握り直し、鍋をかき回す。味見をしてから、調味料を追加。再び味見をして、ようやく完成。かなり濃厚な味で、挽き肉やタマネギ、そしてピーマンとの相性も良し。「ピーマンは苦い。苦いものは毒だ。毒を口に入れるのはおかしい」と屁理屈《へりくつ》をこねるほどピーマン嫌いの紫も、これなら食べられるだろう。  明日にでも、これをご馳走《ちそう》してやろうか?  真九郎がそんなことを思っていると、背後で話し声。 「ねえねえ、闇絵《やみえ》さん。いい香りですね?」 「そうだな。良い香りだ」 「美味しそうですね?」 「そうだな。美味そうだ」 「あれ、あたしたちの分もありますよね?」 「それはどうかな」 「きっとありますよー。だって真九郎くん、優しいし。まさか、あたしと闇絵さんを除《の》け者にして、自分だけ美味しいものを食べようなんて意地悪なことしませんよ。あたしは、真九郎くんを信じたいなあ」 「では、わたしも少年を信じるとしよう」 「……あの、二人とも、後ろでコソコソ喋《しゃべ》るのやめてくれませんか?」  お玉を持って振り返り、真九郎は五月雨荘の年長老二人を軽く睨みつける。  畳の上に寝転がりながら、テレビを観ている武藤環。窓辺に腰掛け、タバコを吹かしている闇絵。その膝の上には、大きな欠伸を漏らす黒猫のダビデ。  特に用もなくやって来て、まるで自分の部屋のようにくつろいでいる二人と一匹。ここは何か言うべきだろう、と真九郎は意気込んだが、「お腹へったー」「同感だ」「ニャー」とそれぞれに主張されると、何だか力が抜けてしまった。  まあいいか、と観念する。 「……もうできますから、ちょっと待っててください」  真九郎は人数分のパスタを取り出し、夕飯の支度を続けることにした。  数時間かけて煮込んだ特製ミートソースは、ほんの三十分で全て消えた。  その大半を一人で平らげた環は、 「あー、今日は一日、なーんにもしませんでした。ずーっと寝てました。さすがにこれは勿体《もったい》ない。なので、あたしの人生の中で今日はなかった日に決定!」  と宣言すると、そのまま床にゴロンと寝転がり、「食った食ったーっ」とお腹をさすり始めた。闇絵はといえば、近くで優雅に一服中。二人の様子は見事に好対照であり、真九郎は本能と理性を同時に目にしているような気がした。  野生児と魔女、だな……。  食後のお茶を飲みながら真九郎がそんな感想を抱いていると、「ねえねえ」と環が甘えるような声。「真九郎くんさあ、明日の夕飯は何にすんの?」 「明日ですか? えーと……ナスがあるんで、味噌《みそ》妙めにします」 「それって、どうやって作るの?」 「まず、油を引いた中華鍋で、ニンニク、ショウガ、赤唐辛子《あかとうがらし》を妙めるんです。そうすると、油に香ばしい香りと辛味《からみ》が付くので、そこに、切り分けたナスと豚《ぶた》バラ肉を入れてよく妙めて、さらに上から味噌ダレを……って感じですけど」 「いいねー、それにしようー」  パチパチと手を叩く環を見て、真九郎はちょっと嫌な予感。  警戒《けいかい》しつつ、一応尋ねてみる。 「……あの、ひょっとして、明日の晩も来ます?」 「だってあたしたち、真九郎くんのこと好きだしー。ね、闇絵さん?」 「まあな」  しれっとした顔で頷き合う、五月雨荘の年長者二人。 「あたし、芋焼酎《いもじょうちゅう》と同じくらい、真九郎くんのこと好きだよ!」 「わたしも、タバコの次の次の次くらいに、少年が好きだぞ」  どっちも微妙だった。 「あー…………じゃあ、用意しておきます」  上手い反論が思いつかず、真九郎はあっさり敗北。食卓は賑やかな方がいい。その方が飯も美味い、と前向きに捉えることにする。実際、真九郎はこの二人が好きであるし、こうして一緒に過ごす時間も結構気に入っているのだ。まあ、食べる量をもう少し手加減してくれるとありがたいかなと、思わなくもないのだが。  環が「よーし、飲むぞ!」と缶ビールを開け、闇絵が静かに窓辺に移ったのを見て、真九郎も腰を上げることにした。全員分の皿を重ねると、足元で丸まったダビデをよけて台所へ行き、袖《そで》をめくって洗い物を開始。これも夕乃に鍛《きた》えられているので、馴《な》れた作業。スポンジ片手に鍋をこすりつつ、家計に占める食費の割合などを考察していた真九郎は、ふと手を止める。後ろの方で、荘厳《そうごん》なクラシックの音色《ねいろ》が流れていたからだ。何だろうと顔を向けてみれば、テレビのニュース番組内の特集。内容は、ポーランドの巨匠が来日して云々《うんぬん》というもので、今日行われた盛大な記念公演の模様が流れているところだった。  ……紫の出席してる、あれか。  そう気づき、真九郎が何となく画面に目を凝《こ》らしていると、退屈そうに観ていた環が「そういえばさあ」とこちらを見上げる。 「クリスマスって、真九郎くんはどうすんの? どっか行く?」 「多分……出かけると思います」 「うわーっ、やっばりムフフだ!」 「ムフフ?」 「二人の熱い夜を、ムフフでアッハーンでしょ?」 「……いや、何を想像してるのか知りませんが、普通に過ごすだけですよ」  環と闇絵はどうなのか、真九郎が逆に尋ねると、「飲み会!」「普段通りだ」とそれぞれ返事。闇絵の「普段」が何を意味するのかは不明だが、そこは追及しないことにする。  真九郎は特集が終わるまでテレビを観ていたが、カメラに映るのは大企業のオーナーや現内閣の大臣、あとは女優などばかりで、結局、紫のドレス姿を画面に見つけることはできなかった。あれほど目立つ少女が映らないのだから、おそらく意図的なものだろう。九鳳院家の情報規制。高貴な姫に気安くカメラを向けるなど、恐れ多いということか。  俺は、そんな子に贈り物をするんだよな……。  見えない重圧を両肩に感じ、真九郎はそっと息を吐いた。それがため息に近くなったのは、もう一つの問題も思い出してしまったからだ。  銀子への支払いの目処《めど》も、まだ立っていない。  これから年末にかけて、紅真九郎には解決すべき問題がいろいろとあるのである。 「少年は、いつも何か悩んでいるな」  真九郎の様子がよほど深刻そうに見えたのか、闇絵が苦笑混じりにそう言った。 「まあ、悩みが多いのは良いことなんだがね……」 「良いことなんですか?」  真九郎が訊き返すと、闇絵は頷く代わりにゆったりと紫煙《しえん》を吐き出す。  夜の窓辺に佇《たたず》む彼女は、その黒衣《こくい》と相《あい》まって、まるで絵画のような趣《おもむき》。常にタバコを手放さないのが、珠《たま》に瑕《きず》だろうか。 「人間はな、大きく、重く、苦しい悩みを抱えることで、初めて自分と向き合う。初めて、自分の人生に能動的な態度を取れるようになる。そういうものだ」  長い黒髪を夜風に揺らしながら、闇絵は淡々《たんたん》と語った。  そして最後に、真九郎の目を見据える。 「少年、幸せからは何も学べないよ。困難から学びたまえ」  もしかして、夕飯のお礼に励《はげ》ましてくれてるのだろうか?  真九郎は一瞬そう思ったが、もちろん確認などしなかった。闇絵が窓の外へ視線を戻すのを見て、真九郎も洗い物を再開。スポンジを握り、鍋を静かにこすりながら、彼女の言葉を噛み締めてみる。  今年も残すところ、あと三週間程度。  この一年は、とにかく波乱|尽《ず》くめだったと思う。  真九郎は揉め事処理屋になることを決意し、崩月家から五月雨荘へ移り住んだ。  初めての経験があり、たくさんの出会いがあり、少しの別れがあった。  迷って、逃げて、苦しんで、争って、傷ついて、何度も何度も泣いた。  常に悩み事のつきまとう日々だったけれど、その分、真九郎はいつも考えていたような気がする。多くのことを、考えていたような気がする。それは闇絵の言う通り、自分の人生に能動的であった、ということになるのかもしれない。もっとも、それらの経験を通じて自分が何を学べたかについては、よくわからないのだが。 「真九郎くーん、なんかおつまみ作ってー」 「何でもいいですか?」 「そこに愛があるなら!」 「……はいはい」  真九郎は洗い物を終えると、環の希望に従った。  エプロンで手を拭《ふ》き、冷蔵庫で使えそうな食材を探しながら、改めてしみじみと思う。  本当に、今年はいろんなことがある一年だったよな、と。  もちろんそれは早過ぎた。  紅真九郎が自分の一年を振り返るには、まだ早過ぎた。  あと半月以上も残っているのに、そんなことをするべきではなかったのだ。  大きな試練というものは、得てして油断した頃にやって来る。  それはちょうど、お化け屋敷の最後に、一番怖い仕掛けが待っているように。 [#改ページ]   第二章 女王の死  揉《も》め事処理屋を始める少し前の頃。  真九郎《しんくろう》は一度だけ、柔沢紅香《じゅうざわべにか》の仕事に付き添ったことがあった。部屋に来た紅香に、「ちょっと来い」と言われ、「何です?」「いいから来い」という短い会話のあとで、強引に連れて行かれたのだ。向かった先は、もちろん事件現場。正確には、アメリカ合衆国の北東部、大都市マンハッタン、その五番街だ。事件の始まりは、トラックの暴走。大勢の客で賑《にぎ》わう真っ昼間、十二階建てのデパートに、一台のトラックが突っ込んだ。トラックは回転ドアもろとも壁を破壊し、客たちを撥《は》ね、オブジェを倒し、逃げ遅れた受付嬢を壁に押し潰《つぶ》してから、ようやく止まった。ここまでなら、ただの事故。しかし次の瞬間、それに濃厚な凶気がブレンドされた。荷台から銃器を持った男たちが降り立ち、警備員を撃ち殺すと、高らかに宣言したのだ。「今からこのビルは、我々が占拠する!」。犯罪先進国であるアメリカは、犯罪の対処においても、やはり先進国。警察は、即座に周辺道路を封鎖《ふうさ》。各所に狙撃《そげき》班を配置し、上空にはヘリコプターを飛ばし、周辺に十数台のパトカーを並べ、ビルを完全に包囲した。FBIの捜査官が現場にやって来たのは、事件発生から一時間後。ベテランらしい捜査官は、拡声器と電話を用い、犯人グループと交渉《こうしょう》を始めた。「おまえらの目的は何だ?」。首謀者《しゅぼうしゃ》は言った。「我々の目的は、世界平和である。そのためには、世界の中心であるアメリカが率先《そつせん》して動き、他の国々を導かねばならない。しかし、今の大統領にそんな才覚はなく、それが可能なのはただ一人である。それは自分である。だから、わたしは大統領にならなければならない。どんな手を使っても、どんな犠牲《ぎせい》を払っても、大統領にならなければならない。乱暴な手を使うのはまことに遺憾《いかん》であるが、世界が滅亡する日は近く、もはや躊躇《ちゅうちょ》している場合ではない。これは全《すべ》て世界平和のためであるから、どうか理解して欲しい」。このふてぶてしい要求に、捜査官も、そして周りにいた警官たちも失笑した。頭のネジが外れた男が、同じように壊れた者たちを引き連れて暴走する。特に珍《めずら》しくもない事件だと。しかし、彼らの認識は甘かった。その笑みも、すぐに消えた。ぶち破られたビルの窓ガラスから、長い銃身がいくつも飛び出すのが見えたからだ。毎分二千発以上の発射速度を誇る、軍用のガトリング砲。本来は戦場で用いるその兵器を、犯人グループは平気で使った。アスファルトをえぐり、逃げる警官たちを蜂《はち》の巣にし、パトカー五台をスクラップに変え、ついでに野次馬《やじうま》たちを何人か吹き飛ばしてから、警察に改めて要求を突きつけた。「我々の目的は世界平和である! 一刻も早く、わたしを大統領に任命せよ! さもなくば、人質を一人ずつ殺していく!」。慌《あわ》てふためく警察に、次々と情報が入る。犯人グループは、数年前に創設された宗教団体。首謀者は、ジーザス・クライストを騙《かた》る元保険のセールスマン。彼に賛同するメンバーの中には、現役の軍人が多数。「くそったれ!」。捜査官は腹立ち紛《まぎ》れにパトカーを蹴飛《けと》ばしたが、それでも自棄《やけ》にはならなかった。この種の人質事件の場合、対処法は決まっている。少しでも時間を稼《かせ》ぐのだ。犯人と交渉を続けながら、同時に突入の機会も窺《うかが》う。汗《あせ》ばむ手で拡声器を握り、捜査官は訴えた。アメリカは民主主義の国であること。だから大統領になるには、選挙で選ばれる必要があること。世界はまだ滅びないこと。そして、殺人は重い罪であること。幼稚園児にでも教え聞かせるように、捜査官は丁寧《ていねい》に、根気強く話し続けた。警官や市民の死体を目《ま》の当たりにしながらも、冷静に努めた捜査官の忍耐力は、賞賛に値《あたい》するだろう。しかし、犯人たちは誰一人、そんなもの聞いちゃいなかった。犯人たちの頭は、教祖であるジーザスを大統領にして世界を救う使命感で一杯だったし、ジーザス本人も、やはり使命感で一杯だったのだ。ああ早くわたしが大統領にならなければ世界が滅びてしまう。状況が動いたのは、日が暮れてからだった。時間稼ぎに終始する警察を見て、犯人たちはついに行動を起こした。人質を殺し始めたのだ。しかも通例とは逆に、女子供から。最初の犠牲者は、まだ四歳になったばかりの幼《おさな》い女の子だった。女の子は見晴らしのいい屋上に連れて行かれ、ビルの端に立たされると、大きな声で泣き喚《わめ》いた。「ママ、たすけて!」。普通なら躊躇するそれにも、犯人の心は動かなかった。何しろ世界平和のためだ。女の子の後頭部を銃でぶち抜くと、飛び散る脳漿《のうしょう》と共に、死体を蹴り落とす。その小さな体が地面に激突して砕《くだ》け散り、次の人質が屋上に立たされるのを見て、現場は阿鼻叫喚《あびきょうかん》の図と化した。捜査官は慌てふためき、無線で上層部に判断を委《ゆだ》ねているうちにまた一人殺され、「可能なら突入せよ」という曖昧《あいまい》な命令が下るまでに、さらに二人が殺された。柔沢紅香が現場に到着したのは、それから数分後。六歳の男の子と、十一歳の女の子が殺され、若い妊婦の後頭部に銃口が押し当てられようとした、まさにそのとき。紅香が運転し、真九郎を助手席に乗せた黒いスーパーカーが、現場に走り込んで来た。派手《はで》なクラクションで野次馬とマスコミを追い払い、手を振って制止する警官をシカトし、『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープもぶっちぎり、パトカーを蹴散《けち》らすようにして、紅香は包囲|網《もう》の最先頭に停車。いきなり乱入してきたその車に、警察も、野次馬も、マスコミも、そして犯人グループさえも唖然《あぜん》とし、その場の全ての視線が集中。助手席にいた真九郎は、足が震えていた。目眩《めまい》がして、呼吸が乱れ、口の中はカラカラだった。事件の詳細《しょうさい》も、作戦も、真九郎は道中に紅香から聞いて知っていた。自分も助けになろう。修行の成果を見てもらおう。そう思っていたのに、実際には、顔を上げることさえできなかった。人々からぶつけられる、非難と怒りと好奇と困惑《こんわく》。命のやり取りをする現場特有の、張り詰めた空気。想像を超える緊張感に、真九郎の神経はとても耐えられなかったのだ。隣に紅香がいなければ、目を閉じて、うずくまっていたかもしれない。「これが最前線だよ、真九郎」。サイドブレーキを引き、タバコに火をつけながら、紅香は言った。「ビビったか?」「……はい」「おまえ、わたしと同じ仕事に就《つ》くんだろ?」「……はい」。情げなく震える真九郎を見ても、紅香は笑わなかった。彼女は安易に慰《なぐさ》めることも、元気づけることもせず、ただ己《おのれ》の行動でその意思を示す。「ここで待ってろ。すぐに終わる」。そして紅香は、颯爽《さっそう》と車から降り立った。一斉《いっせい》に焚《た》かれるカメラのフラッシュ。突きつけられる無数のマイクと、飛び交《か》うレポーターの質問。それらをまったく意に介《かい》さず、紅香は堂々と進む。どれだけ取材しようと無駄なのだ。この世には、写真やカメラに記録しても、報道してはいけない存在がいる。それが許されない存在がいる。表世界と裏世界の間で結ばれた、暗黙の協定。周囲の喧騒《けんそう》をよそに、紅香はゆったりとタバコを吹かし、まずは現場の指揮を取るFBIの捜査官に近づいた。彼女が己の身分を明かすと、それだけで、捜査官は全て納得したようだった。あんたが柔沢紅香か。それならしょうがない。この場の全権を彼女に移譲《いじょう》し、ついでに拡声器も渡した。紅香はタバコを衛《くわ》えたまま数歩前に踏み出し、拡声器のスイッチを入れ、犯人に告げる。真九郎は英語のヒヤリソグが苦手だが、紅香が何と言ったのか、その表情と口ぶりからある程度は想像がついた。彼女は多分、こう言ったのだろう。 「やい、てめえら! 今からぶっ潰してやるから覚悟しやがれ!」  そして事件は解決した。本当に、あっという間だった。紅香の行動は、大胆で慎重。無謀で緻密《ちみつ》。犯人グループの人数、武器、配置、そして人質の状況さえも、紅香は事前に把握《はあく》していた。彼女の忠実な部下、犬塚弥生《いぬつかやよい》は忍《しのび》の家系。弥生は、その恐るべき隠密《おんみつ》能力を駆使《くし》し、必要な情報を紅香に伝えると、デパートの主電源を落とした。それを合図に、紅香は突入。武器は拳銃一丁のみ。しかし、何も問題はなかった。彼女は柔沢紅香なのだ。混乱するビル内部を、紅香は風のように駆け抜け、嵐のように暴れた。犯人グループを残らず掃討《そうとう》し、「天罰《てんばつ》が下るぞ!」と叫ぶジーザスを「やかましい!」と蹴り倒して拘束《こうそく》。ビルを完全に制圧し、人質を無事に解放してのけた。犯人グループの不運は、人質の中に国連事務総長の孫娘がいたこと。そして国連事務総長が、裏世界最高の揉め事処理屋が誰か知っていたことだ。トレンチコートを風になびかせ、悠然《ゆうぜん》と帰還《きかん》する紅香を見て、真九郎は胸が熱くなった。そして理解した。どうして急に、紅香が自分を誘ったのかを理解した。これは、真九郎へのはなむけ。これから自分と同じ道を歩もうとする真九郎に、彼女はその身をもって手本を示してくれたのだ。真九郎は、紅香の気遣《きづか》いに感謝し、彼女という理想像と出会えた幸運に感謝し、そして改めて誓《ちか》った。自分も必ず、柔沢紅香のようになろうと。  しかし今現在、紅《くれない》真九郎はどうか?  紅香の電光石火《でんこうせっか》の解決劇に感動したのが、一年近く前。あれからたいして進歩がない、と思う。いくつかの事件に関《かか》わり、多少は成長したかもしれないが、彼女に比べればスケールが小さい。あまりにも小さい。  まったく、完全に、弁解の余地もなく、まだまだ小物だろう。  真九郎自身、いつもそれを痛感している。  たった今も痛感している。  何しろ普通の警官一人、まともに相手にできないくらいなのだから。 「……で、君は、飽《あ》くまで散歩してただけというんだね?」 「はあ、そうです」 「こんな天気の悪い日に?」 「はあ、そうです」 「散歩ってのは、近所でするもんだろ? どうして電車に乗ってまで、この辺《あた》りに?」 「……まあ、何となく」  真九郎が愛想《あいそ》笑いを浮かべると、若い警官は「どうも要領を得んなあ……」とブツブツ言いながらボールペンを動かした。警官が書き込んでいるのは、机の上にあるA4サイズの調書。荒い字でそこに記される内容を見ながら、真九郎はため息を吐く。  いつまで続くんだろう、これ……。  真九郎の現在位置は、大型デパートや専門店、そして飲食店などが密集する繁華街《はんかがい》。その一角にある、小さな交番内だった。事務机と指名手配犯のポスターくらいしかない殺風景《さっぷうけい》な空間で、居心地は最悪。大通りに面しているため、通行人が無遠慮な視線を投げてくる。  こんな場所は早く去りたいものだが、相手が公権力では迂闊《うかつ》に逆らうわけにもいくまい。  それにしたところで、やはりこれは無駄な時間である。  今日は十二月十二日、土曜日。せっかくの週末なのに、真九郎はもう三十分近くもここにいるのだ。  こうなった顛末《てんまつ》は、実にくだらないもの。真九郎は学校から帰ると、私服に着替えて軽い昼食を取り、すぐに出かけた。面倒な追試が終わり、悩み事の一つが解決したその解放感から、繁華街まで足を伸ばしてみたのだ。そして、安い炬燵《こたつ》や圧力|鍋《なべ》はないものかと量販店を回っていたところで、巡回中の警官に呼び止められた。「君、ちょっといいかな?」「は?」。まずはお決まりの持ち物検査、次に名前や住所などの質問。警官はそれが済むと、「立ち話もなんだから」と言い出し、真九郎は半《なか》ば強引に交番まで連れて来られたというわけである。 「散歩ねえ……」  答えに納得がいかないのか、警官はさっきから何度もそう繰り返し、ボールペンの先で机を叩《たた》いていた。  真九郎が警官に呼び止められることは、滅多《めった》にない。しかし、仮にそうなった場合は、たいてい長引く。「あんたは普段から臨機応変《りんきおうへん》が利《き》かないけど、緊張すると、さらにボケボケでダメダメになるからね」というのが銀子《ぎんこ》の分析《ぶんせき》で、実際、今日もその通りだった。職務質問に慌てた真九郎は、咄嗟《とっさ》に「散歩してました」と答えてしまい、それがまずかったのだ。今日は朝から天候がイマイチで、散歩|日和《びより》とは言い難い。目的もなしに繁華街をうろっくのは、やや不自然。しどろもどろに話す様子と加えて、挙動不審《きょどうふしん》に思われるのも仕方なしか。  とにかく今日は、良くない日らしい。真九郎はそう解釈することにした。銀子なら、「あんたの要領が悪いだけよ」と言うかもしれないけれど。  警官はしばらく悩むように捻《うな》っていたが、真九郎の素振りから、これ以上|突《つつ》いても何も出ないと判断したのだろう。拍子抜《ひょうしぬ》けしたように笑い、調書から顔を上げる。 「まあ、いいかな……。特に変な物を持ってるわけでもないし、もう帰ってもいいよ。一応、連絡先だけ教えてくれる?」 「俺、一人暮らしなんですけど、そこでいいですか?」 「人暮らし? じゃあ、自宅の方の連絡先を教えてよ」 「いや、それはちょっと……」 「……何? 言えないの?」  真九郎が視線を伏せると、警官の顔から笑みが消えた。  保護者への連絡を恐れ、身元を隠そうとする若者は多い。そういう者たちは、得てして何か後ろ暗い部分がある。それが警察の発想。  警官は怪《あや》しむように目を細め、ボールペンの先を真九郎に向けた。 「君さあ、やっぱり何か隠してんじゃない?」 「そんなことは……」 「じゃあ言えるだろ! やましいことがないなら、連絡先を言いなさい!」  家族はいません。親戚《しんせき》もいません。身元保証人はいるけど言いたくありません。  それが正直な説明だが、言ったところでさらなる不審を煽《あお》るだけだ。  沈黙を選ぶ真九郎を見て、「……ったく、最近のガキは」と警官は舌打《したうち》ち。  机の上にボールペンを放り投げ、代わりに受話器を掴《つか》む。 「そういう態度なら、ちょっと署の方に行こうか? そこで、じっくり話を聞くから」 「……署の方、ですか」  乱暴な手つきで、警官は電話を開始。どうやら、パトカーを呼ぶつもりらしい。  夜までに帰れるかな……。  連れて行かれるのは少年課か、それとも生活安全課か。どちらにせよ、痛くもない腹を探られる。今以上に不愉快《ふゆかい》な時間の始まりである。  ガックリと肩を落とし、深いため息を吐いた真九郎は、交番の外で誰かが立ち止まったことに気づいた。何気なくそちらを見やり、唖然。 「あ、やっばり真九郎さんですね」 「……夕乃《ゆうの》、さん」  大通りからこちらを見つめる少女は、崩月《ほうづき》夕乃だった。  彼女はハイネックの白いセーターとチェックのロングスカート、そして足元はサンダルという姿。細い腕で紙袋を抱《かか》えているところからして、買い物の途中に偶然通りかかった、ということか。  驚きのあまり、真九郎はまともに声も出なかったが、夕乃は冷静だった。電話中の警官を一瞥《いちべつ》するだけで、彼女は事情を把握。少し考えてから行動。自然な足取りで交番の中まで入って来ると、机の上にすっと手を伸ばす。  そして、電話を切った。 「な、何だね君は!」 「こんにちは」  怒りに目を剥《む》く警官に、彼女は上品に微笑《ほほえ》みかける。  どんなときにも泰然自若《たいぜんじじゃく》。それが、崩月夕乃という女性だ。彼女が怯《おび》えたり、動揺したりするのを真九郎は一度も見たことがない。だからといって、彼女の本質がただ「おしとやか」なのかといえば、それは違う。  突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》、しかもよく見れば美しい少女とわかり、警官は困惑。  対する夕乃は、ひたすら冷静。  両手を胸の前で軽く合わせ、まずは丁寧に謝罪。 「失礼なことをしてすみません。うちの真九郎さんが、困っていたようなので」 「うちのって……。君、こっちの彼と知り合いなの?」 「はい」  夕乃はにこやかに頷《うなず》いた。そのゆったりした動作は、平時よりワンテンポ遅い。  多分、社交用のものなのだろう。  不審感を隠そうともしない警官に、彼女は続ける。 「彼は、わたしのダーリンなんです」 「ダーリン?」 「あら、いけませんか? 年下の彼氏」 「……君、そういうことじゃなくてだね!」  相手が語気を強めようとも、夕乃は決して笑みを崩《くず》さない。  いきり立つ警官を前に、彼女はちょこんと首を傾《かし》げた。 「彼、何かしたんでしょうか? 何か悪いことをしたから、ここにいるんですよね?」 「何かしたというよりも、彼が……!」 「誰かの物を盗んだり、誰かを騙《だま》したり、誰かを傷つけたり、誰かを殺したり、そういう悪いこと、したんでしょうか?」 「あ、いや、そういうことは……」 「していない?」  夕乃がニコッと笑うと、警官はその笑みに促《うなが》されるように素直に頷いた。  既《すで》に彼女のペースだ。  警官の目をじっと見つめながら、夕乃は続ける。 「じゃあ、彼、何も悪いことはしていないんですね?」 「まあ、たしかに……」 「それなら、もう帰っていいですよね?」 「それは……」 「いいですよね?」  夕乃に微笑まれた警官は、またしても素直に頷いた。あっさり折れた警官の気持ちが、真九郎には理解できる。夕乃の笑顔の力だ。彼女に優しく微笑まれると、たいていの男は抵抗力を失う。自然と、「ああこんな綺麗《きれい》な子が笑っているのだからここは言うことを聞いてあげよう」という気になってしまうのだ。 「……まあ、それほど怪しい点もないようだし、もう結構でしょう。君も、次からは気をつけなさい」  憎《にく》らしいほど物分かりの良い大人の顔で、警官は真九郎の肩を手で叩く。真九郎は、それに苦笑しか返せなかった。  警官は調書を破り捨てると、真九郎の持ち物を全て返却。そして二人を、交番の外まで送ってくれた。「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げる夕乃に、「いや、そんな!」と警宮は照《て》れたように手を振り、真九郎の顔を一度だけ見てから交番へ。多分、二人があまりに不釣合《ふつりあ》いなので、そこだけはまだ引っ掛かるのだろう。  それはそうだよなと思いつつ、真九郎は隣にいる夕乃に「ありがとう」と感謝。 「本当に助かったよ。もう少しで、面倒《めんどう》なことになりそうだったんだ。でも、珍しいね、夕乃さんがこんなところに来るなんて? 買い物なら、俺も一緒に……」 「真九郎さん」  思いがけない冷たい声に、真九郎は続く言葉を呑《の》み込んだ。  夕乃の反応は、明らかに不機嫌なもの。  戸惑《とまど》う真九郎を横目で見据《みす》え、彼女は言った。 「わたし今、ちょっと怒ってるんです。だから今日は、ここでお別れしましょう」 「えっ、何で……」 「わかりませんか?」  真顔《まがお》で問われた真九郎は、数秒間だけ彼女を見つめ返し、すぐに視線を外す。  夕乃がなぜ怒っているのか、その原因に思い至《いた》ったからだ。  警官一人を相手に、ろくに反論もできない真九郎。一方的にやり込められる姿は、男としても、崩月家の弟子としても情けない。それを目の当たりにし、気分を害したのだろう。師匠《ししょう》格である彼女からすれば、当たり前だ。  弁解の余地がなく、項垂《うなだ》れるしかない真九郎の隣で、夕乃はさっと背を向けた。 「では、失礼します」  平坦《へいたん》な口調でそう言い置き、彼女は離れていく。迷いのない足取り。  真九郎はその後ろ姿を、目で追うことすらもできなかった。  やっばり今日は、良くない日ってわけだ……。  こんなことなら繁華街になど来るんじゃなかったと後悔しても、今さら遅い。もはや買い物を続ける気力もなく、真九郎に残された選択|肢《し》は帰路に就《つ》くことだけ。じっとしていると内側から自己嫌悪に食い殺されそうなので、とにかく歩くことにした。  さて、駅はどっちだったか。  帰ってから、何をしようか。  軽く頭を振りつつ、真九郎が視線を巡《めぐ》らせると、 「……あれ?」  二十メートルほど先の路上から、夕乃がこちらを見ていた。  しかも、何か言いたげな眼差《まなざ》し。  理由がわからず、少し躊躇《ちゅうちょ》しながらも、真九郎は一応駆け寄ってみる。  すると彼女は、開口一番《かいこういちばん》。 「……真九郎さん。これは、どういうことですか?」 「えっ?」 「どうして、すぐに追いかけて来ないんですか?」 「いや、だって、夕乃さん怒ってるし……」 「怒ってますよ」 「今日は、ここでお別れしましょうって……」 「言いましたよ」 「だから……」 「それでも殿方《とのがた》は、ちゃんと追いかけてくるものです!」  女性はたまに理屈に合わないことを言うよな、と真九郎は思う。もっともそれも、銀子に言わせると、「男は何でも理屈にできると思ってる」ということになるらしいのだが。  気がつくと、通行人がチラチラとこちらを窺っていた。崩月夕乃の容姿は、とても目立つ。ただ立ち話をしているだけでも注意を引いてしまうので、真九郎は後ろから彼女の肩を押し、ゆっくりと移動。目指すは最寄《もよ》りの老舗《しにせ》デパート。  その間も、夕乃の主張は続く。 「真九郎さん、今週の水曜日、学校の廊下でわたしのことシカトしましたよね?」 「シカト? いや、あれはそういうわけじゃ……」 「わたし、心の中でず————っとサインを送ってたのに、真九郎さん、ちっとも気づいてくれませんでした」 「……そう、なんだ。すいません」 「本当に酷《ひど》いです。真九郎さん、この前なんか、わたしを抱き締めたくせに。『夕乃さんがいれば他には何もいらないよ』って、耳元で囁《ささや》いたくせに」 「えっ、そんなことあった?」 「ありました! 三日前、わたしの夢の中で!」 「あー……はい、すいません」  溜《た》まった欝憤《うっぷん》を晴らすように喋《しゃべ》り続ける夕乃を連れ、デパートに入った真九郎は、入り口の側《そば》に木製のベンチを発見。ちょうどいいので彼女をそこに座らせ、近くにあった自販機の前に立つ。「夕乃さん、何か飲む?」「お茶」。短い返答に苦笑しつつ、真九郎は缶入りの温かいお茶を購入し、夕乃に渡した。  彼女は両手で缶を持ち、それをグイッと呷《あお》ると、ため息混じりに言葉を漏《も》らす。「本当に、本当に真九郎さんは酷いですよ……。あと二週間くらいしかないのに、まだ何も言ってくれないし。だから、わたしだって怒るんです」  あと二週間くらい。まだ何も言ってくれない。  いったい何の話かと真九郎は首を捻《ひね》り、デパートの受付に置かれた小さなクリスマスツリーを見て、やっと閃《ひらめ》く。残り二週間程度でクリスマス。  その日の予定に関しては、たしかに、まだ夕乃に言っていなかった。  真九郎は、一応確認。 「それってさ、ひょっとして……クリスマスの話?」 「そうです。クリスマスです」 「じゃあ、さっきからそんなことで怒ってるわけ?」 「……そんなこと?」 「いえ、すいません。失言でした」  反射的に頭を下げながら、真九郎は体からどっと力が抜けるのを感じた。  そんなことだったのか……。  安堵《あんど》のあまり笑いたくなってしまったが、そんな場合ではないだろう。  缶を持ったまま、静かに手元を見つめる夕乃。表情から推察《すいさつ》するに、まだ怒っているのは確実であり、ここで話を終えるわけにもいくまい。  男女のケンカというものは、いつでも女が先に怒り出し、男が先に謝る。  昔の偉い人がそんなことを言ったらしいが、紅真九郎の人生において、それは見事に当てはまる真理。そしてそのことに、真九郎は何の不満もなかった。  とにかく謝ってでも仲直りしたい女性が、自分の身近にいる。  それは、幸せなことだと思うからだ。  真九郎は軽く咳払《せきばら》いし、まずは正攻法。 「ごめんね、夕乃さん。俺、そういうことに気が回らなくてさ……」 「もういいです。わたし、このまま、テレビしか話し相手がいないようなお婆さんになってやりますから」  夕乃は口を尖《とが》らせ、プイッと横を向く。そう簡単には許さないそ、という空気だった。  さてどうするか。  少し考えて、真九郎は再挑戦。 「あー……今日のその服、とても素敵だね」 「……素敵?」  これは成功。まだ険しい顔をしながらも、夕乃の態度が微妙に軟化した。こちらをそっと窺う彼女に、「ウソじゃないよ」と真九郎は笑って見せる。本当に、お世辞《せじ》ではない。白を基調とした服装は黒髪が良く映《は》え、彼女の清潔さをも際立《きわだ》たせていたのだ。学校の制服姿よりも少し大人びた雰囲気《ふんいき》は、新鮮でもある。 「本当に良く似合ってるよ。なんていうか、お嬢様とか、若奥さんて感じかな?」 「……若奥さん、ですか?」 「うん、そんなふうに見える」  真九郎が肯定すると、夕乃はペンチに缶を置き、しばし沈黙。  そして胸の前で手を合わせ、上目遣《うわめづか》いで真九郎を見上げる。 「……じゃあ、もしもですよ? もしも、わたしみたいな奥さんをもらえたら、真九郎さんはどうですか?」 「どうって……?」 「結婚して良かったなあとか、幸せだなあとか、思ったりします?」 「まあ、思うだろうね」  それはわかりきったことだ。崩月夕乃と結ばれた相手は、必ず幸せになれるだろう。将来、どんな男が彼女の心を射止《いと》めるかはわからないが、それだけは間違いないと真九郎は思う。彼女には、そう予感させるものがあるのだ。それは、「幸せの香り」とでも言うべきものかもしれない。  真九郎の答えを聞いた夕乃は、五秒ほど放心。  やがて気を取り直すと、とろけるような表情で、「おっかしいなあ……」とつぶやいた。 「わたし、さっきまでは怒ってたのに。しばらく口|利《き》いてやるもんか——って、思ってたのに。今はもう、とってもご機嫌です」 「……それは良かった」  彼女の笑顔を見て、真九郎はようやく胸を撫《な》で下ろす。どのへんが功《こう》を奏《そう》したのか、イマイチよくわからないけれど、失点を取り戻せたなら嬉《うれ》しい限りだ。  機嫌を直した夕乃が語るには、今日は大事な買い物のため久しぶりに繁華街まで来たということだった。何を買ったのか、紙袋の中身に関しては「まだ秘密です」と夕乃。ニコニコ笑っているので、彼女にとっても楽しい物なのだろう。 「それはそうと、真九郎さん、少し痩《や》せたんじゃないですか? ちゃんと食べてます?」 「まあ、それなりに……」 「それなり?」  適当な返事でも、夕乃は流さない。  少し怒ったような顔で、真九郎を睨《にら》みつける。 「お腹《なか》が減ったら、うちに来なさい。困ったことがあったら、うちに来なさい。寂しくなったら、いつでもうちに帰って来なさい。わかりましたか?」 「……はい」 「さっきの警察の件もそうです。真九郎さんのことだから、うちに迷惑が及ぶと思って口をつぐんだんでしょうけど、そんな配慮は無用です。もし次に似たようなことがあれば、そのときは堂々と崩月の名を出してください。我が家が、あなたの身元を保証します」 「……うん、ありがとう」  彼女の言葉を嬉しく感じながらも、真九郎は不思議に思う。  いつも、不思議に思う。  崩月夕乃は、ただの弟子に過ぎない自分を、とても気遣ってくれるのだ。まるで、本当の身内のように扱《あつか》ってくれる。どうしてだろう。どうしてそんなに優しいのだろう。それは銀子がずっと友達でいてくれるのと同じく、「言葉にしなくてもいいこと」なのだろうか。  近くの壁時計を見ると、もう夕方。これから人通りが激しくなる時間帯だ。  そろそろ移動した方がいいなと真九郎が思ったところで、それを察した夕乃が缶を捨て、ベンチから腰を上げる。真九郎は荷物を代わりに持とうとしたが、「これはいいんです」と彼女が言うので、二人はそのまま大通リへ。  空模様は怪しいが、湿気はそれほどでもなく、まだ雨は降りそうになかった。 「わたし、これから夕飯のお買い物をします。真九郎さんは、それに付き合ってください」 「喜んで」  今の真九郎に、ここで異論を挟《はさ》めるわけもない。  素直に従う真九郎を見て、夕乃はニッコリ笑う。 「今週は、あんまりお話しできませんでしたからね。クリスマスの件も含めて、これからじっくりお話ししましょう?」  真九郎は今、十六歳だ。その短い人生を振り返ってみた場合、最初の半分は幸せな時間だったと思う。笑って泣いて遊んでケンカして、毎日が、ただ幸せだったと思う。でもそれは、唐突《とうとつ》に終わった。終わってしまった。真九郎は地獄を見て、絶望を知り、世界を呪《のろ》い、死を望んだ。それでも今、真九郎がどうにか生きていられるのは、その後の八年間があったから。その後の八年間を、崩月家で過ごしたから。銀子は言った。「あの家は異常だ」と。真九郎は言った。「でも俺は、あの家の人たちが大好きだ」と。それは真九郎の本音。心からの言葉。裏十三家の一つだろうと、人殺しの家系だろうと、そんなことは関係なく、真九郎は崩月家の人たちが本当に好きだった。崩月家は特別な場所。そこには、かつて自分が失《な》くしてしまった家族の温《ぬく》もりがある。  真九郎は、そう思う。 「……じゃあ師匠は、ずっと家にいらっしゃらないんですか?」 「いないわよ。いつものことだし、どうせ年明けまで帰って来ないんじゃない?」  崩月|冥理《めいり》はそう言うと、肩をすくめた。  真九郎と冥理、そして最年少の散鶴《ちづる》がいるのは、崩月家の広い居間。真九郎と冥理はテーブルを挟んで座り、散鶴は真九郎のすぐ側《そば》で、静かに絵本を開いていた。  屋敷を訪れた真九郎は、法泉《ほうせん》に挨拶《あいさつ》しようとしたのだが、生憎《あいにく》と今は旅行中。それも当然のごとく、女連れらしい。  相変わらずだなあと思い、真九郎が苦笑していると、冥理は話を続ける。 「まあね、うちのお父さんがどこで何して遊んでたって、別にいいと思うのよ。基本的にそういう人だし。真九郎くんも、それは知ってるでしょ?」 「……まあ、一応」 「不在中の当主代行も、今は夕乃がちゃんとやってるから。お父さんがいなくても、実は全然OKなのよね」 「えっ? 当主代行は、冥理さんじゃないんですか?」 「わたしはダメよ。だって主婦だもん」  冥理は両手で頬杖《ほおづえ》をつき、歯を見せて笑う。のほほんとしているその姿は、二人の娘を持つ母親ではなく、まるで年頃の少女のようであった。崩月冥理は、外見からはまったく実年齢を感じさせない女性だ。散鶴を抱いているときは熟練の母親に見えるし、テレビの前で笑っているときは高校生くらいに見える。「年齢なんか関係ないわよ。女の子は、歳《とし》を取っても老いないんだから」というのが冥理の弁。実際、これから何年|経《た》っても彼女は今と変わらないのではないか、と真九郎は思う。  のんびりと笑いながら、冥理は独自の見解を口にする。 「今の〈崩月〉は、学生野球に例《たと》えるなら、夕乃がキャプテン。わたしが監督。お父さんが校長。ちーちゃんが可愛《かわい》いマネージャーで、うちの旦那《だんな》は後援会の会長ね。真九郎くんは……期待の大型ルーキーかしら?」 「はあ、なるほど……」  わかりやすい。野球好きの真九郎は、何となく理解した。ただ一点。「期待の大型」という過剰《かじょう》な表現だけは、心苦しいところだが。  冥理は一度腰を上げると、台所でお湯を沸かしてから戻り、急須《きゅうす》に注いだ。手馴《てな》れた動きでお茶を滝《い》れ、湯飲み茶碗《ぢゃわん》の一つを真九郎に渡しながら、「それにしそれにしても遅いわね」と眉《まゆ》をしかめる。 「せっかく真九郎くんが来てるのに、あの子、まだ電話してるのかしら……。わたし、ちょっと呼んでくるわ」 「あ、いえ、俺は平気ですから!」  廊下に向かおうとする冥理を、真九郎は慌てて止めた。  真九郎と買い物をし、一緒に帰宅した夕乃は、その直後からずっと電話中である。単純に長電話、というわけではない。相手は複数。それも全て男。不在中に、「崩月さんが帰ってきたら連絡をいただけませんでしょうか?」という類《たぐい》の電話が山ほどあり、その対応に追われているのだ。崩月夕乃は携帯電話を持たない主義。だから彼女と連絡を取りたいときは、必然的に自宅にかけることになる。  冥理がこっそり教えてくれたところによると、電話の用件はどれもクリスマスの誘い。今月に入ってから、毎日何件もかかって来ているらしい。一度として同じ人物からはないという点が、夕乃の人気の高さを示していた。そして、その一つ一つに律儀《りちぎ》に返事をするのが、彼女の性格というわけである。  夕乃がようやく居間に現れたのは、冥理が二杯目のお茶を俺れた頃だった。さすがに疲れたのではないかと真九郎は心配するも、崩月夕乃に乱れなし。対人関係の経験値が、真九郎とは桁違《けたちが》いなのだろう。足取りも軽やかに、「お待たせしました!」と元気良く帰還。その様子に笑いながら冥理が席を離れると、入れ替わるようにして、夕乃は真九郎の正面に腰を下ろした。熱いお茶を一口飲み、数秒間|休憩《きゅうけい》。そしてすぐに「さっきの話の続きなんですけど、いいですか?」と切り出す。よほど気になってるんだなと驚きつつも、真九郎は「いいよ」と快諾《かいだく》。  さっきの話とは、十二月二十四日の件。今年のクリスマスは崩月家で過ごそうと思っている。真九郎は帰りの道中にそう伝えたのだが、夕乃はまだ半信半疑らしく、きちんと確認したいようだった。  ウソはダメですよ、という顔で夕乃は質問。 「真九郎さん。紫《むらさき》ちゃんのことは、どうするんです?」 「紫は……」  九鳳院《くほういん》紫、二十四日の夜の予定は、英国大使館でクリスマスパーティー。海外のVIPも多数出席する、大きな催《もよお》しである。紫は「真九郎がわたしと一緒にいたいなら……」と出席をやめるようなことも言っていたが、それを求めるほど真九郎も非常識ではない。九鳳院家の義務を快《こころよ》く優先させてあげるのが、大人の気遣いというものだろう。 「じゃあ、村上《むらかみ》さんは?」 「銀子なら……」  村上銀子、二十四日の夜の予定は、楓味《ふうみ》亭の手伝い。これは例年通りのことだった。学校では無愛想《ぶあいそう》な銀子も、店では一応|看板《かんばん》娘。クリスマスを理由に浮かれることもなく、客の相手をしながら、実に淡々《たんたん》と過ごすのが銀子の流儀なのである。  真九郎からの説明を聞き終えると、夕乃はそれを吟味《ぎんみ》するように黙り込んだ。  十秒ほどしてから、真九郎に最終確認。 「えっと、つまり、今年のクリスマスは本当に……我が家で?」 「うん。毎年そうだしね」  正月やクリスマスは、崩月家で過ごす。それは紅真九郎にとって、半ば習慣になっている概念だった。この家に居候《いそうろう》していた八年間、ずっとそうしていたからだろう。  だから今年も、と自然に考えていたのだが、夕乃は何故《なぜ》か意外そうな表情。  真九郎は、急に不安になる。 「もしかして、こういうのってまずいのかな? 俺は、もうここを出た身だし……」 「大歓迎です!」  真九郎の憂《うれ》いを、夕乃は一蹴《いつしゅう》。  両手をグッと握り締め、彼女は力説した。 「遠慮することなんかありません。この家を出ようとも、真九郎さんは崩月家の一員であり、家族も同然。それにいずれは、本当の身内になる予定ですし」 「本当の?」 「……まあ、もう少し先のことですけど」  頬を赤く染め、小声でつぶやく夕乃。  何だかよくわからなかったが、今まで通りに過ごせるなら、真九郎も嬉しい限りだ。 「でも、夕乃さんの方こそ、クリスマスは家にいるの? いろいろ誘いがあるみたいだし、誰かと会う予定とか……」 「ありません」  夕乃はきっばり否定。 「わたしの心は、もうずっと前から決まってるんです」 「そうなんだ……」  そうなんです、と肯定し、夕乃は湯飲み茶碗を手に取った。  落ち着いた様子でお茶を味わい、それからホッと息をつく。 「真九郎さんと一緒に過ごせるか心配だったんですけど、話を聞いて安心しました。今年は、ちょっと特別な年ですからね。実はそれを記念して……」 「夕乃、また電話よー。今度は三年の新垣《あらがき》くん!」  廊下から冥理の声。多分、笑いながら言っているのだろう。妙に楽しそうな響きだった。夕乃は廊下の方を軽く睨み、「……真九郎さん、あと一つだけお話しさせてください」と視線を戻す。何やら神妙《しんみょう》な顔。真九郎は急いで姿勢を正し、彼女の言葉を待つ。  夕乃は湯飲み茶碗をテーブルに置き、オホンと咳払い。 「学生として勉学に勤《いそ》しみながら、なおかつお仕事までしているあなたのご苦労は、わたしなりに理解しているつもりです。この世の中は、至る所に闇《やみ》だらけ。迷いや誘惑は、さぞかし多いことでしょう。心が揺れたことも、何度かあるはずです。でも、大事なことを忘れてはいけません。それは我が家で、十分に学んだはず。そうですね?」 「はい、もちろんです」 「では真九郎さん。わたしが最初に教えた、人生の指針となる言葉は何ですか?」 「えーと………… 年上の女房は金の草鞋《わらじ》を履《は》いてでも探せ」 「偉い、その通りです!」  夕乃はニッコリ笑うと、満足げに頷いた。そして緩《ゆる》やかな動作で「それでは、ちょっと行って来ます」と廊下へ。彼女の電話対応は懇切《こんせつ》丁寧。しばらくは戻って来れないだろう。  三年の新垣って、うちの生徒会長だよな……。  その人気を改めて思い知り、真九郎が感嘆しているところで、「面倒なら、適当にあしらっちゃえぽいいのにねー」と笑いながら冥理が居間に入って来た。そろそろ夕飯の支度《したく》に取りかかるのか、身に着けているのは花柄のエプロン。主婦の戦闘服だ。  腰に手を当て、冥理は笑顔のまま言う。 「真九郎くん。今日は夕飯を食べていきなさい。それと、今年のクリスマスは、我が家に泊まっていいんだからね?」 「あ、でも、ご迷惑じゃ……」 「何言ってんのよ。君の部屋はまだちゃんとあるし、毎日お掃除だってしてるんだから、すぐに使えるわ。……まあ、何なら、あの子の部屋に泊まってもいいけど」 「は?」 「大丈夫だって。わたし、野暮《やぽ》なこと言わないから。二人とも年頃なんだし、そうなるのも自然の流れよ。安心して励《はげ》むといいわ」 「何をです?」 「もちろん、セックスよ」  言葉を失う真九郎の前で、冥理はあっけらかんと笑っていた。さすがは崩月法泉の実の娘、というべきだろう。清楚《せいそ》な見た目に反し、冥理はその種の話題にとても寛容なのだ。そんな祖父と母を見て育ったからこそ、夕乃は逆に貞操《ていそう》観念が強くなったのかもしれない。  反応に困りながらも口を開こうとした真九郎は、後ろからクイクイッと服を引っ張られた。肩越しに振り返ってみると、服を掴むのは小さな手。不思議そうな顔で、散鶴がじっとこちらを見上げていた。これ幸いと思い、真九郎は彼女に向かう。 「どうしたの、ちーちゃん? 読めない字でもあった?」 「ねえ、お兄ちゃん」 「ん?」 「せっくすってなーに?」  どうやら今の会話を聞かれていたらしい。  幼い瞳《ひとみ》に浮かぶのは、純粋な疑問を示す色。  真九郎は余裕を持って、大人の対応をすることにした。 「うーん、ちーちゃんには、まだまだ早いかな」 「はやい?」 「今のちーちゃんには、言ってもわからないと思うし……」 「……ひみつ?」  仲間外れにされた、とでも思ったのだろう。  散鶴の表情が曇《くも》っていくのを見て、真九郎は慌てて「違う違う!」と手を振る。  赤ん坊の頃から知っている崩月散鶴は、実の妹も同然。  彼女を悲しませる行為は、紅真九郎にとって禁忌《きんき》の一つなのだ。 「そうじゃなくてね。それは、ちーちゃんがもっと大きくなったら、教えてもらえることなんだよ」 「だれに?」 「お母さんか、お姉ちゃんか、学校の保健の先生だね。それか、ちーちゃんの好きになった男の人が、ちゃんと教えてくれると思うよ」  真九郎の説明を聞いた散鶴は、視線を下に落とした。小さな手を口元に当て、「うー」と悩むように捻ってから、再び真九郎を見つめる。 「ちづる、お兄ちゃんがいい」 「……えっ?」 「ちづるが大きくなったら、お兄ちゃんが教えてね?」 「あー……」 「やくそくね?」  真九郎の手をギュッと握り、散鶴は無邪気な笑顔。  崩月家の女性は、みんな笑顔で自己主張する。  冥理も夕乃も散鶴も、とびきりの笑顔で言いたいことを言う。  そういう家風なのだろう。男にとっては、恐るべき家風だった。 「そう……だね……」  抗《あらが》う術《すべ》を持たない真九郎は、かろうじて曖昧な返事。ハハハと乾いた声で笑いつつ、視線を彷径《さまよ》わせると、冥理と目が合った。その口元には楽しげな笑み。彼女は何か言いたそうでもあったが、真九郎はあえて追及しないことにした。  男には、ただ笑ってるしかない状況というものがあるのである。  駅前のスーパー『猿丸《さるまる》』の営業時間は、午後九時まで。そのため、いつも閉店一時間前くらいになると、売れ残った商品に値引きのシールが貼《は》られ始める。それをよく知る真九郎は、崩月家で夕飯をご馳走《ちそう》になった帰り道、その足でスーパーに寄って行くことにした。駅に着いた時点で午後八時を過《す》ぎており、ちょうどいいタイミングだったのだ。生鮮食品売り場の棚を覗《のぞ》くと、めぼしい品をいくつか発見。あとはシールが貼られるのを待つのみ。まだ店員が現れる気配はなく、じっとしていても仕方がないので、しばらく時間を潰《つぶ》す。  店内をゆっくり歩いてみると、普段は見られない飾り付けがいくつも施《ほどこ》されていることに気づいた。これから年末にかけてが、商店の書き入れ時。店側としても、気合を入れる時期なのだろう。壁や天井には、華《はな》やかな豆電球。入り口近くには特設コーナーが設けられ、プレゼント用のお菓子の販売やケーキの注文などを受付中だった。その脇《わき》に置かれた高さ二メートルほどのクリスマスツリーの前では、大学生らしきカップルが笑顔で立ち話。漏れ聞こえる断片からすると、二人の話題は「何歳までサンタを信じていたか?」。どうやら男性の方がロマンチストらしく、女性はそれをケラケラ笑っている。その笑い声を背中で聞きながら、真九郎はクリスマスに関わる思考を進めてみることにした。  悩んだ末に、紫へのプレゼントはようやく決まった。喜んでくれるかはわからないし、完成にはまだ時間もかかるが、なかなか悪くない発想だと自分では思う。ところがその後に、大きなハードルが控《ひか》えていたのである。  紫に、どうやってプレゼントを渡すのか?  サンタクロースからのプレゼント、という大前提がある以上、普通.に手渡すのは論外だ。やはり、寝ている紫の枕元にこっそり置くのが最高だが、それはあまりに困難。何しろ真九郎は、紫の寝室どころか、九鳳院家の屋敷に近づいたことすらもないのだ。  表御三家の一つ、〈九鳳院〉の城。  部外者である自分がそこに立ち入るには、おそらく九鳳院|蓮丈《れんじょう》の許可が必要だろう。  しかし、あの頭の固い御仁《ごじん》が、こちらの用件を聞いてくれるだろうか?  ちょっと想像してみる。 「〈崩月〉の小鬼か。貴様、何しに来た?」 「夜分遅くに失礼いたします。自分は、サンタクロースとして参りました」  ……無理だな。  とてもじゃないが、そんな説明では納得するまい。以前に無礼を働いた件も加味して、真九郎は殺されかねないと思う。現実的な方法として考えられるのは、騎場大作《きばだいさく》に頼むこと。紫の護衛《ごえい》役である彼なら、寝室にプレゼントを置くことも不可能ではないはずだ。クリスマス・イブの夜、屋敷の門前まで行き、騎場に連絡してプレゼントを託《たく》す。真九郎の立場では、それで満足するしかないのかもしれない。  サンタクロース役としては、少し味気ないのが残念ではある。 「味気ない、か……」  真九郎はそうつぶやいてから、何となく苦笑してしまった。この数時間、そればかり考えていた自分。紫のプレゼントのことで、暢気《のんき》に頭を悩ませていた自分。冷静に考えればそれがどれだけ不思議なことであるか、今さらになって気づいたからだ。  クリスマスには自殺者が増えるという。新聞か何かに書かれていた話だが、この時期に死を選ぶ者たちの心境が、真九郎は少なからず理解できる。昔は、もっと理解できた。世の中には、この浮《うわ》ついた楽しい空気に素直に浸《ひた》れない者もいるのだ。むしろそれに反発し、嫌悪を抱く者もいるだろう。家族が亡くなってからしばらくは、真九郎も苦痛だった。この時期が近づくたびに、憂鬱《ゆううつ》になった。サンタクロースやクリスマスソングは否《いや》が応でも昔の記憶を刺激し、家族との思い出を掘り起こさせる。しばしの幸福な時間を与え、それと引き換えに、後でどん底まで突き落とす。自分自身の現実を、改めて見つめさせるのだ。自分の家族は、もうこの世の何処《どこ》にもいないこと。これから自分が何をしようとも、どれだけの努力をしようとも、決して昔には戻れないこと。そんな当たり前のことを、ずっと忘れていたいことを、クリスマスは強制的に確認させられる時期。だから真九郎は、クリスマスが嫌いだった。  それからいくらか年を経《へ》て、最近ではその苦痛も薄まり、夕乃や銀子とちょっとしたプレゼントをやり取りするようにもなってはいるけれど、これは果たして紅真九郎が人間として成長した結果か。それとも、現実逃避が巧《たく》みになっただけなのか。どんな不安も、目を背《そむ》ければ消える。自分は、ただそれを忠実に行っているだけかもしれない。  店内を一周してから生鮮食品売り場に戻ると、店員が値引きのシールを貼っているところだった。真九郎は後ろで少し待ち、四割引きになった鳥のモモ肉とタコの切り身を獲得。レジに並んで精算を済ませ、外に出る。途端《とたん》、まとわりつくような湿気を感じた。空は黒一色。崩月家を出た頃から天候は怪しかったのだが、そろそろ本格的に崩れそうな気配だ。通行人がみんな早足なのは、それを察してのことだろう。買い物袋を肩に担《かつ》ぎ、真九郎もその流れに乗ろうとしたところで、上着のポケットからメールの着信音。携帯電話を取り出してみると、送信者は銀子だった。内容は、『大事な話がある。可能なら家に来い』というもの。 「大事な話って……何だろ?」  真九郎は首を傾げる。わざわざ呼ぶということは、よほど重要な用件。しかし、思い当たる節《ふし》がない。『可能なら』と書いてあるので、緊急性はイマイチだ。今日は、これから帰って紫のプレゼント作りを進めようと思っていたわけだが、さてどうしよう。  真九郎は手に持った買い物袋を見て、どんより曇った夜空を見上げ、腕時計で時間を確認し、迷いながらも決断。  横断歩道を走って渡り、駅へと向かうことにした。  五月雨《さみだれ》荘の暮らしに概《おおむ》ね満足している真九郎だが、不満を感じている点もあった。作りが古いとか、トイレが共同とか、そういうことは平気だ。管理業務が投げ出されているのも、別にかまわない。ただ一つ、部屋に風呂がないこと。それだけが惜《お》しいと思う。銭湯《せんとう》の広い風呂も嫌いではないのだが、他人の目が気にならないといえばウソになるし、完全に気を抜くのは難しい。でも、家の風呂なら周りを気にせず、心底《しんそこ》落ち着くことができる。じっくりと、風呂を楽しむことができる。村上家を訪れた真九郎は、それが幸せであることを改めて実感することになった。  銀子の呼び出しに応じ、楓味亭に辿《たど》り着いたのが午後十時頃。店の前まで来た真九郎は、既に曖簾《のれん》が片付けられているのを見て裏口に回り、チャイムを押した。そして玄関に出てきた銀正《ぎんせい》に要件を告げると、「こんな夜に呼びつけるとは、あいつも勝手な奴《やつ》だな……。まあ、取り敢《あ》えず風呂でも入ってけよ!」と有無《うむ》を言わせぬ勢いで押し切られ、風呂場に連れて行かれてしまったのだ。銀子は仕事で部屋に籠《こ》もっているので、あとで呼んでやるよ、と銀正。 「悪いな、シンちゃん。仕事中に声かけると、あいつ、嫌がるからさあ」 「たしかに、そういうところありますね」 「年頃の娘は難しいもんよ。この前なんて、『おまえ中学の頃からずっとAカップだな』って言ったら、メチャクチャ怒られたしな」 「……それは、当たり前だと思いますけど」  とにかく真九郎は、銀正の勧《すす》めに従い、ありがたく風呂をいただくことにしたのである。  石鹸《せっけん》とシャンプーを遠慮して使いつつ、髪と体を洗い終えた真九郎は、片足ずつゆっくりと湯船に沈めていった。熱いお湯が、皮膚《ひふ》から染《し》み込んでくるような感覚。それに応じて徐々《じょじょ》に筋肉が緩み、疲れが流れ出ていく。真九郎は胸まで湯船に浸《つ》かると、少し強めに息を吐き出し、体から力を抜いた。村上家の風呂は、それほど広くはなく、湯船の中では思い切り手足も伸ばせない。それでもやっばり、家に風呂があるのはいいなと真九郎は感じる。周囲を気にせず全身の緊張が解けるのは、ささやかな快感だ。真九郎はお湯をすくって顔にかけ、薄く目を閉じ、その幸せを十分に堪能《たんのう》。風呂場を満たす湯気をぼんやりと眺《なが》めながら、それにしても、と思う。  銀子の大事な話とは、いったい何なのか?  支払いの件、ではないだろう。期限にはまだ日があるし、催促《さいそく》するにしても電話で十分のはずだ。追試のために借りたノートなら、既に返却済み。クリスマスの予定は、お互い例年通りなのを確認してある。  こうして落ち着いて考えてみても、やはり思い当たるものがない。 「本当に、何なんだろうな……」  顎《あご》まで湯船に浸かり、真九郎が小さく捻っていると、扉の向こうに人の気配。まだ入ってますとか、ちょっと待ってくださいとか、真九郎がそんなことを言う間もなく、扉は勢い良く開放。  入って来たのは、銀子だった。  彼女はもちろん衣服を身に着けておらず、ごく自然な足取りで風呂場に踏み入ると、後ろ手に扉を閉める。呆然とする真九郎の姿には、気づいた様子なし。幸か不幸か、濃い湯気と彼女の近眼が相乗効果を発揮《はっき》しているらしい。当然この場合、幸いなのは真九郎の方であり、不幸なのは銀子の方、ということになるだろう。銀子は風呂|椅子《いす》に腰を下ろすと、手桶《ておけ》で湯船のお湯をすくい、肩にかけた。その飛沫《しぶき》がかかるほどの距離にいた真九郎は、湯船の中でただ硬直。気まずさもあったが、それだけではない。湯気の中に浮かび上がる彼女の裸《はだか》に、しばし見とれてしまったからだ。大の運動嫌いで、いつも室内にいることが多い村上銀子。だから彼女は、同年代の少女たちに比べると少し痩せ気味で、決してスタイルが良いわけではない。それでも真九郎は、ああ綺麗だな、と素直に思った。細い手足も、薄い胸も、滑《なめ》らかな腰も、少し物憂《ものう》げな表情さえも、魅力的だと思う。自分の最初の友達で、親友でもある村上銀子は、やっばり女の子。そして本当に美人なのだ。  頭から熱い湯をかぶり、顔に流れる水滴を手で拭《ぬぐ》いながら、銀子はリラックスした表情で息を吐く。そして手桶で再びお湯をすくおうとしたとき、その眼差しがようやく真九郎の姿を捉《とら》えた。濡《ぬ》れた髪の隙間《すきま》から覗く目が、すっと細まる。  湯気を介《かい》し、まともに交わる二人の視線。  天井から垂《た》れた水滴が、ピチャンと湯船に落ちた。 「……お邪魔してます」  沈黙に耐え切れず、先手を打ったのは真九郎。  銀子はそれに、ピクリとも反応しなかった。彼女はしばらく無言で真九郎を見つめ、やがて静かに腰を上げると、そのまま風呂場を出て扉を閉める。  そして。 「お父さん!」  響き渡る怒鳴り声を残し、ドタドタと足音を立てながら彼女は去って行った。多分、銀正さんが何か悪戯《いたずら》心を起こしたんだろうなと、真九郎は推察。妻を愛すること、娘をからかうこと、店を繁盛《はんじょう》させること。それが、村上銀正の生き甲斐《がい》らしいのだ。耳を澄《す》ましてみれば、父と娘の賑《にぎ》やかな言い合いが聞こえてくる、ような気もする。  後のことを考えると頭が痛いところだが、真九郎は取り敢えず、もう一度ゆっくり肩まで湯船に浸かることにした。  洋の東西を問わず、女性の風呂は長い。  テレビのトーク番組などを観《み》ていると、たまにそういう話題が出る。女優やアイドルがそれを自慢げに語る姿を観ながら、「大げさに言うなあ」と真九郎はいつも苦笑していたものだが、どうやらあながち誇張ではないようだった。  少なくとも、村上銀子には当てはまるらしい。 「長い……」  壁の時計を見てから軽くため息をつき、真九郎はベッドの端に腰を下ろした。真九郎がいるのは、村上家の二階にある銀子の部屋。風呂から出た真九郎をキッと睨みつけ、「……部屋で待ってなさい」と低い声で命じたのは銀子であり、真九郎は素直に従っているのだが、それにしても長かった。もうかれこれ四十分。買い物袋の中身は冷蔵庫に預けたし、冷たい麦茶を飲みながら銀正とラーメン談義や世間《せけん》話などもしたのだが、銀子は一向に風呂場から出てくる気配がないのだ。 「そりゃあさ、こんな夜遅くにシンちゃんが来たからだよ。あいつきっと、念入りに体を洗ってんだ」  銀正は笑いながらそんなことを言っていたが、真九郎にはよくわからなかった。  いずれにしても、彼女が現れない限りどうにもならないのは事実。  真九郎は気持ちを切り替え、とにかく待つことにする。  銀子の部屋に入るのは数年ぶりだったが、昔とそれほど変わっていなかった。ゴミ箱の位置やテレビの角度など、何から何まで整然としていて、女としての色気にはやや欠ける、そういう部屋だ。白い壁にはカレンダーがあるだけで、ポスターの一枚もなし。勉強机の上には、ノートパソコンと、株の四季報。スクリーンセーバーの作動した液晶の画面では、熱帯魚がゆらゆらと泳いでいた。  壁一面を占める大きな本棚には、著者名の五十音順で並べられた本。隣のラックには、やはりアーティスト名のアルファベット順に並んだCD。彼女は、そういうところがとても几帳面《きちょうめん》なのだ。かつて一緒に図書館に行った際も、本の不規則な並び方に気分を害し、その場で正し始めたほど。面倒くさいなあとぼやきながら、真九郎も手伝ったものである。  彼女の好む本のジャンルは、主に雑学系や専門書、そして古典ミステリー。CDは、全て洋楽。最新の流行歌は知らずとも、古い洋楽なら真九郎も多少の知識を持っているのは、昔、ここを訪れるたびに様々な音楽を聴かされた名残《なごり》だろう。  部屋にあるものを目で確認していくうちに、真九郎は己の中に、まだ昔の自分が息づいているような気がしてきた。きっと、微《かす》かに残っているのだ。家族に囲まれて、ただ暢気に暮らしていた頃の紅真九郎。頭の中はマンガとアニメのことで一杯で、ヒーローに憧《あこが》れ、ブランコを高く漕《こ》ぐことに情熱を燃やし、駆けっこで負けることを本気で悔《くや》しがっていた自分。今とはまるで違う、かつての自分。  もしもあのままテロ事件に遭遇《そうぐう》しなかったら、紅真九郎はどうなっていたのだろう? 今のように、銀子とは親友でいて、こうして夜に部屋を訪れたりしていたのか。それとも、彼女とは何処かで別れて、別の誰かと仲良くなっていたのか。友達と遊び歩き、恋愛に熱を上げ、青春を謳歌《おうか》する。そんな紅真九郎も、あり得たのかもしれない。  ……くだらない妄想《もうそう》だな。  自嘲《じちょう》気味に笑いつつ、真九郎はその思考の流れをすぐに止めた。人生は一方通行。どんなに悔やんでも後戻りはできない。人間にできるのは、未練たらしく過去を振り返ることだけだ。  真九郎はベッドから腰を上げ、軽く伸びをしながら、気を取り直すように深呼吸。そして再び本棚を眺めていると、「おっ」と小さく声が漏れた。  古い小説を見つけたのだ。  医師を相棒《あいばう》に従え、難事件を解決する名探偵の物語。 「シャーロック・ホームズか……。子供の頃に、全巻借りて読んだっけ」  マンガしか読まない真九郎に腹を立て、銀子が半ば無理やりに貸してくれた覚えがある。読後の感想もきっちり求められたので、真九郎はかなり真面目《まじめ》に読んだものだった。ホームズは、あらゆる名探偵たちの元祖ともいえる存在。事件を解決するという点においては、揉め事処理屋である今の自分と共通している、かもしれない。  懐《なつ》かしさから手を伸ばし、真九郎が本をパラパラめくっていると、扉の向こうで階段を上がってくる足音が聞こえた。それに続いてノックもなしに、部屋の扉が開く。  いつものように無愛想な表情で現れたのは、待ち佗《わ》びた相手、村上銀子。彼女はパジャマ姿で、まるで聖母マリアのように頭からバスタオルを被《かぶ》っていた。その頬が僅《わず》かに赤いのは、しっかりお湯で温まったからか。あるいは、さっきの件も関係しているのか。 「えらく長かったな……」 「そう?」  真九郎の苦情を軽く受け流し、銀子は部屋の扉を閉めた。そして澄まし顔で、「そんなことよりも……」と続ける。 「紅真九郎くんには、もっと他に言うべきことがあるんじゃないかしら?」  たしかにその通り。  冷たい瞳で見据えられ、真九郎は慌てて本を棚に戻した。  両足を揃《そろ》えて立ち、銀子に向かって頭を下げる。 「村上銀子さん、さっきは申し訳ありませんでした。反省しております」 「どれくらい?」 「あー……今度、部室の掃除をさせていただきます」 「徹底的に?」 「もちろん、隅《すみ》から隅まで」 「なら、結構」  銀予は鷹揚《おうよう》に頷くと、この話題を打ち切るようにバスタオルで髪を拭《ふ》き始めた。実にさばさばとした感清の整理は、まさに村上銀子。彼女を前にすると、真九郎は男である自分の方が女々《めめ》しいのではないかとよく感じる。それは多分、錯覚《さっかく》ではないはずだ。  シャンプーの香りを漂わせ、銀子は真九郎の脇をすり抜けるように移動。机の前の椅子に腰を下ろすと、細い足を組み、膝《ひざ》の上に手を載せた。姿勢は部室にいるときと同じだが、妙に可愛らしく感じるのは、パジャマの効果だろう。サイズは大きめ。加えて、カラフルな音符のイラストが多数。やけに似合っていることもあり、今夜の彼女は少し幼く見えるのだ。その様子に真九郎は思わず笑ってしまったが、「何よ?」と凄《すご》まれたので、すぐに表情を訂正《ていせい》。  ふん、と鼻を鳴らしながら腕を組み、銀子は言う。 「そういえば、あんた、紫ちゃんのプレゼントはもう決めたの?」 「ああ、それなら……」  真九郎の知る中では、村上銀子が最も常識人。なので、真九郎は彼女にも意見を求めていたのだが、その後の経過についてはまだ詳《くわ》しく伝えていなかった。ちょうどいいので、自分の考えを話すことにする。散々《さんざん》迷った末に真九郎が選んだのは、極《きわ》めてシンプルなもの。  手編みのマフラーだ。  学校帰り、商店街を走り回る子供たちが首にマフラーを巻いているのを見た際、ああこれにしようと閃いたのである。真冬という今の季節を考慮しても、まさに最適。幸いにして、編み物なら夕乃に仕込まれているし、本屋で専門誌を立ち読みしてみたところ、デザインに凝《こ》らなければ初心者にも可能と判明。かくして真九郎は、暇《ひま》を見つけてはせっせとマフラーを編んでいるのだった。 「……あんたにしては、まあまあの発想ね」  話を聞いた銀子は、いつもの口調でそう評した。言葉の中身に反して、表情はかなり柔い。彼女が肯定するなら、それは世間一般の常識に照らしても「正しい」ということ。プレゼントにマフラーを選択した考えは、間違っていないらしい。  内心、少し不安もあった真九郎は、ホッと胸を撫で下ろす。  そして控え目に口を開いた。「あのさ、実は、それで一つ相談が……」 「延びないわよ」 「………」 「マフラー作りに専念したいんでしょうけど、支払いの期限は今学期一杯。それはそれ、これはこれで、どっちも頑張りなさい」 「……はい、頑張ります」  あえなく完敗。  未《いま》だ金策の目処《めど》が付かないので、あわよくばと思ったのだが、幼なじみは手厳《てきび》しい。  とにかく、先にマフラーを完成させよう。  支払いの件は、それからだ。  時計を見ながら頭を掻《か》き、真九郎は早目に引き揚げることに決めた。 「それで、銀子、メールにあった大事な話って何なんだ?」  遠回りをしたが、やっと本題。  しかしそこで、唐突に沈黙が流れた。真九郎がいくら待ってみても、銀子からの答えはなし。彼女は視線を足元に落とすと、そのまま目を細め、ただ無言。  即断即決の村上銀子には珍しい、何かを迷うような素振り。  ……そんなに、言い出しにくいことなんだろうか?  まさか、ただ会って話がしたいから呼んだ、なんてオチではあるまい。たとえそうでも真九郎はかまわないが、彼女はそんな無意味なことをする性格ではないのだ。ではこの反応は、いったいどういうことか。いろいろと考えつつ、真九郎が再び口を開こうとしたところで、銀子はようやく視線を上げた。  バスタオルを首にかけ、真九郎の目をじっと見つめながら、質問。 「……あんた、コーヒーと牛乳、どっちが飲みたい?」 「は?」 「牛乳でいいわね」  銀子は一人で完了。そして呆気《あっけ》に取られる真九郎を残し、部屋から出て行った。  待つこと数分。  彼女は両手にマグカップを持ちながら部屋に戻り、まるで何事もないように「はい」と真九郎に片方のマグカップを渡すと、再び椅子に腰を下ろした。  ……いったい何なんだよ。  まるで意味不明の行動だ。それでも真九郎が抗議しなかったのは、銀子の持つマグカップを見たから。ネコのイラストが描かれた、陶《とう》製のマグカップ。それは去年のクリスマス、真九郎が銀子に贈ったものだった。彼女はこの種の小物が好きであり、真九郎が骨董《こっとう》市を回って探してきたのだ。  愛用してくれてるんだな、とそれだけで嬉しくなり、真九郎は頬を緩めながらマグカップに口をつけた。中身はホットミルク。ハチミツとバニラエッセンスが混ぜてあるようで、ほんのり甘く、心が落ち着く味。寒い夜の飲み物としては、最高の一つだろう。「美味《うま》いな」と真九郎が感想を漏らすと、銀子は「そう」とだけ答え、視線を手元に落とした。  マグカップに息を吹きかけ、その湯気でメガネを曇らせながら、彼女はぽつりと言う。 「……大事な話っていうのはね、情報よ」 「情報?」 「あたしには、たいして価値のない情報。でも、あんたにとっては違うでしょう。それで呼んだわけ。こういうのは口で告げるよりも、実際に見た方がいいような気がするしね。全てあたしの独断だから、料金は要らない」  銀子は一口だけホットミルクを飲むと、椅子を回転させてパソコンに向かった。マグカップを机の上に置き、代わりにマウスを握って操作開始。 「第一報が入ったのは、今週の水曜日よ。しばらく裏づけを取ってみたけど、どうやら確定らしいわ」 「あ、そう……」  にわかに真剣味を帯びる銀子の声に、真九郎は曖昧に返事をした。  プロの情報屋である彼女が、無料で情報を提供してくれる。しかもそれは、紅真九郎に関わること。わざわざ家に呼んだのは、それだけ重大という意味なのだろうが、さっばり想像がつかないのだ。  微かな寒気を感じ、何となく窓に目をやると、外の天気は荒れそうな気配だった。換気のために開かれた隙間から、鋭い風が吹き込み、レースの付いたカーテンが小さく揺れている。 「これよ」  銀子の声で視線を戻し、真九郎は彼女の肩越しからパソコンの画面を覗いた。海外からの情報らしく、全文が英語。銀子はマウスを動かし、すぐに翻訳。  真九郎は、それを読んだ。  思考が止まった。  無意識のうちに口が開き、足腰から力が抜け、体が傾く。床に倒れずに済んだのは、銀子が咄嗟《とっさ》に手で支えてくれたからだ。真九郎は、それに礼を言うこともできなかった。意識は画面に釘付《くぎづ》けで、他の事をする余裕などない。  喜怒哀楽《きどあいらく》のどれも表すことなく、真九郎は呆《ほう》けた。魂《たましい》が抜けたように、ただ呆けた。  それを強《し》いた情報は、要約すればたったの九文字。 『柔沢紅香が殺された』 「……ウソだろ」  口から漏れたその響きは、あまりに弱々しく、どこにも届かなかった。  ただ世界に溶けて、消えた。 [#改ページ]   第三章 さがしてください 「真九郎《しんくろう》、どうかしたのか?」 「えっ、何で?」 「さっきから、全然食べてないぞ?」 「あー……ちょっとな」  紫《むらさき》の無垢《むく》な視線を受けながら、真九郎は誤魔化《ごまか》すように鼻の頭を掻《か》いた。  十二月十三日。日曜日。五月雨《さみだれ》荘。  テレビの時刻表示を見れば、今は午前八時過ぎ。窓から日差しが射《さ》し込む中、真九郎は紫とちゃぶ台を囲み、一緒に朝食をとっているところだった。久しぶりに暇《ひま》のできた紫が部屋に遊びに来たので、ついでに彼女の分も用意したのだ。  今朝の献立《こんだて》は、手軽に作れるチーズトーストと、冷たい牛乳。  紫はチーズトーストをモグモグと噛《か》みながら、真九郎の方をじっと見ていた。さっきまではテレビのアニメ番組に集中していたはずだが、ぼんやりするばかりで自分の皿に手をつけない真九郎のことが、どうも気になったらしい。  真九郎が食事を始めないのは、食欲がないからではない。体調は万全。焼けたパンの香りは胃袋を刺激し、体の方はきちんと空腹を主張している。意識が、それに応《こた》えていないだけ。別のことに気を取られ、目前の事象が少し霞《かす》んでいるのだ。  紫はチーズトーストを半分ほど食べ終えると、両手でコップを握った。ゴクゴクと牛乳を飲み、「ふう」と息を吐いてから、厳《おごそ》かな口調で言う。 「真九郎。これは前にも言ったが、困ったことがあれば、わたしに相談しろ。真九郎のためなら、わたしは何でもするぞ?」  勘《かん》の鋭い紫からの、頼もしい言葉。ただし、口の周りに牛乳の白い跡を残したままでいるところが、やはりまだ子供。その様子に少し笑いつつ、真九郎は箱ティッシュから一枚抜き取り、彼女の口の周りを拭《ふ》いた。  なるべく平気な声を意識し、「大丈夫だよ」と言う。 「別に、たいしたことじゃないんだ。ほんのちょっと、悩んでることがあるだけでさ」 「本当か?」 「本当だよ」  彼女に肯定しながら、真九郎は内心で叱《しか》りつけた。自分自身を罵《ののし》った。  しっかりしろ、紅《くれない》真九郎。  胸に抱える不安を、いちいち周りに伝播《でんぱ》させてどうする。そんなのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》。ましてや、この幼《おさな》い少女にそんなものを感じさせてはいけない。絶対にいけない。  暗い思考は、ひとまず凍結。心の隅《すみ》に押し込めよう。  解凍するのは、後でいい。 「……いただきます!」  気持ちを切り替えるつもりでそう宣言し、真九郎は食事に取りかかった。片手でチーズトーストを掴《つか》むと、大きく口を開け、わざと豪快にガツガツと齧《かじ》る。ほんの三口で片付けてから、次に牛乳を一気飲み。いずれも紫へのアピールだが、彼女はまだ疑わしげな顔をしていた。  ここで変に言葉を重ねれば、ウソの上塗りになる。それは避けたい。  困った真九郎は空《から》のコップを持ったまま視線を巡《めぐ》らせ、一計を案じる。タイミング良く、テレビで映画のCMが流れていたのだ。 「……紫。今日は、映画にでも行こうか?」 「映画?」  紫の表情が変わった。形のいい眉《まゆ》をひそめ、「映画……」と再度つぶやく。  そこに好奇心の欠片《かけら》を感じ取り、真九郎はもう一押し。 「映画、観《み》に行ったことあるか?」 「ない! 行ったことないぞ!」  見事に好感触。大きな瞳《ひとみ》を輝かせる彼女に、「じゃあ決まりだな」と真九郎は頷《うなず》いた。  単なる思いつきだが、なかなかの良案。少なくとも、部屋に籠《こ》もるよりは遙《はる》かにマシのはずだ。外出する活力をくれた紫には、感謝するべきかもしれない。 「むう、映画か……」  本日の予定が決まったことで、彼女はすっかり上機嫌。まだ食事が途中なのに気づき、慌《あわ》ててチーズトーストの残りを頬張《ほおぼ》り始める。その無邪気な反応を見ながら微笑《ほほえ》み、真九郎はさっそく映画館の場所を調べることにした。  やたらと曖房の効《き》いた電車に乗り、二人が駅から出ると、街はかなりの混雑ぶりだった。  日曜日なのに加えて、クリスマスが近いという条件が重なっているからだろう。デパートは人でごった返し、商店は何処《どこ》も大賑《おおにぎ》わい。新型ゲーム機を販売する量販店の前では、店員が声を張り上げて長い列を整理中。歩行者天国となった路上には、マイク片手に演説する者や、ギターを掻き鳴らすミュージシャンの姿など。至《いた》る所に人が溢《あふ》れ、ひたすら賑やかな街並み。  昨日と同じく天候は怪《あや》しいが、それを気にしている者は少数に違いない。困った時しか祈らないように、人は普段、空をたいしてまともに見ないのだ。 「真九郎、今日は仕事があるのか?」 「ないよ」 「明日は?」 「ないよ」 「それは良かった! このままずっと、仕事がないといいな! たくさん遊べるぞ!」 「んー………………まあ、そうだな」  そんな会話を交わしながら、二人は並んでゆっくりと街中を進む。  交差点を渡ってイタリアンレストランの脇《わき》を通り、映画館に到着。ゲームセンターやファーストフード店の並びにあるそこは、十階建ての大きな建物だ。現在は六作品が上映中で、映画館の前には、既《すで》にいくつかの行列。紫は、早くも好奇心を発動。壁に貼《は》られた巨大なポスターや、予告編を流す液晶テレビ、そして俳優の等身大パネルなどを次々と見て回り、「おーっ!」とか「ほう!」と声を上げ、かなりご満悦《まんえつ》の様子だった。豪華絢欄《ごうかけんらん》な場に慣れた彼女からすれば、庶民《しょみん》の娯楽施設というだけでも珍《めずら》しいのかもしれない。その光景に口元を緩《ゆる》めながら、真九郎も辺《あた》りを眺《なが》める。  映画館に来るのは、真九郎も久しぶり。自発的に何かをして楽しむことに、真九郎は罪悪感があり、こういう場所に足を運ぶことは滅多《めった》にないのだ。それは多分、死んだ家族への後ろめたさ。ある種の強迫観念。最近になって、多少なりとも気持ちに変化が生じてきたのは、元気な七歳児のお陰《かげ》だろうか。  上映作品の一覧《いちらん》を見てみると、ちょうど子供向けの映画がやっていた。ドジな海賊《かいぞく》が主役の、派手《はで》な冒険|譚《たん》。上映開始まではあと三十分ほどで、それほど待つ必要もなし。  よしこれを観ようと決め、真九郎はチケット売り場の列に加わる。  しかし、いざ順番が来たところで、隣にいる紫が突然こう言い出した。 「真九郎、あれにしよう!」 「えっ?」  彼女が指差したのは、海外の恋愛映画。ポスターには、街灯の下で抱き合う男女の姿と、『今年度最後の純愛!』という謳《うた》い文句。雰囲気《ふんいき》からして若者向けの明るい作品のようだったが、子供との鑑賞に適しているかは、また別の問題である。  真九郎は当然渋るも、「あれがいい! わたしは、あれが観たい!」と紫が頑《がん》として譲《ゆず》らないので、子供でも平気か、チケット売り場の女性に確認。「吹き替え版もありますよ」と女性は返答。ニヤニヤ笑っているのは、真九郎と紫のやり取りが聞こえていたからだろう。  本日の外出は、紫の希望。ならばそれを忠実に叶《かな》えるべきか。 「……じゃあ、その映画で」  子供一枚と学生一枚、真九郎はチケットを購入。そして「さあ、行くぞ!」と紫に引っ張られながら、エレベーターで五階へ。入り口でチケットを切られると、まず売店に向かった。 「紫、何が飲みたい?」 「喉《のど》がシュワーっとなるやつがいい!」  真九郎は炭酸入りのジュースを買い、それを紫に渡して劇場内に進む。中に入るとすぐに、彼女は勢い良く駆け出した。一度スクリーンの前まで行き、その大きさを確かめてから、興奮《こうふん》気味に戻ってくる。 「すごいなー あんな大きいテレビは、屋敷にもないぞ!」 「いや、あれはさ……」  映写機とスクリーンの仕組み。前方と後方を指差しながら真九郎が説明すると、紫は目を丸くし、「……ほう、科学の力だな」と感心するように頷いていた。その大げさな反応に苦笑しつつ、真九郎は彼女の手を引いて座席へ。二人の座席は真ん中より少し後ろで、右寄りの通路側。真九郎は紫を通路側に座らせ、自分は隣に腰を下ろした。彼女の脱いだ上着を丁寧《ていねい》に畳《たた》みながら、周囲を観察。客席の埋まり具合は、八割程度。大半が若いカップルだ。子供連れは自分だけだったが、ここは観念するしかないだろう。紫がジュースの炭酸に「うー」と顔をしかめ、真九郎がそれを見て笑っているうちに、上映開始。ブザーが鳴ると同時に照明が落ち、場内の話し声が一斉《いっせい》に途絶《とだ》えた。肘掛《ひじかけ》に置いた真九郎の手に、紫の手が重なる。彼女は映画は初体験。急に訪れた闇《やみ》と静けさに、心細くなったのだろう。僅《わず》かに強張《こわば》った小さな手を真九郎が握り返してやると、それで安心したのか、紫の手から力が抜けた。そしてスクリーンに、映画の予告編が流れ始める。CGで描かれた動物の物語で、二本足で立つライオンが「ボク、大変な事件に巻き込まれちゃったんだー」とこちらを向いて話し出すと、紫は早くも集中し始めたようだった。この種の瞬発力において、子供は大人を遙かに凌駕《りょうが》する。邪念の多い大人と違い、子供はいつでも好きなものに熱中できるのだ。紫の顔に笑みが浮かぶのを見てから、真九郎もスクリーンに目をやることにした。もちろん、ただ瞳に映すだけ。観る必要はない。  鼻から深く息を吸い込み、真九郎は緩やかに気持ちを切り替える。  頭の中を思索の水で満たし、そこに意識を沈め、記憶を徐々《じょじょ》に解凍。  十二月九日。真九郎が期末テストに遅刻し、政治家の献金騒ぎや下劣な幼児売春など、くだらない事件が報道されていた日のこと。海外で、一つの惨事が起きた。場所は香港《ホンコン》。中心街にある最高級ホテル、セントラル・グレイ。三十七階建てを誇るそのビルの地下駐車場で、突然爆発が起きたのだ。ガスや電気系統のトラブルによる事故、ではない。多量のプラスチック爆弾を用いた犯罪。悪魔の所業《しよぎょう》だ。火炎と爆風と瓦礫《がれき》に呑《の》み込まれ、亡くなった客は十数人。その犠牲者《ぎせいしゃ》の中に、とある東洋人がいた。それはマスコミが決して報道しない、裏世界の要人。世界最高の揉《も》め事処理屋、柔沢紅香《じゅうざわべにか》。  柔沢紅香が死んだ。  真九郎は昨夜、銀子《ぎんこ》の部屋でその情報を得た。事前にホットミルクを用意したのは、彼女なりの優しさだったのだろう。真九郎が少しでも平静でいられるように、気を遣《つか》ってくれたのだ。  事件現場は凄《すさ》まじい有様《ありさま》で、柔沢紅香と確認できる死体が見つかったわけではないらしい。それにも拘《かか》わらず、彼女が犠牲者に数えられた理由は三点。一つは、爆発の起きる数分前、地下駐車場に下りる紅香の姿がホテルの従業員たちに見られていること。もう一つは、瓦礫の中からスクラップと化した紅香の愛車が発見されたこと。最後の一つは、事件を境《さかい》にして、紅香の目撃情報がぷっつり途切れていること。以上の理由から、「柔沢紅香は死んだ」と考えられているのだ。常識的な判断、ではあるだろう。  場内で笑い声が起こった。スクリーンに意識を戻すと、恋人同士の修羅場《しゅらば》に犬が乱入し、家具やケーキを引っくり返しながら走り回っている。隣の席の紫も、クスクス笑っていた。  それを見て真九郎も少し笑ってから、また思索に意識を沈める。  銀子の話では、事件を仕組んだ犯人は既に特定されているらしい。犯人自身が、爆発は柔沢紅香を狙《ねら》ったものだと公言し、己《おのれ》の偉業を裏世界に流布《るふ》しているのだ。その人物の通り名は、〈孤人要塞《こじんようさい》〉。真九郎の心情を配慮してか、あるいはよほどの危険人物なのか。それ以上のことは、銀子も教えてくれなかった。真九郎としても、知る必要はないと思う。  バカバカしい。  それが全《すべ》てを踏まえた、紅真九郎の感想なのだ。  大胆不敵で傍若無人《ぼうじやくぶじん》。誰より頼もしいあの柔沢紅香が、死ぬわけがない。  どれほど悪辣《あくらつ》な罠《わな》に陥《おちい》ろうとも、あの柔沢紅香が死ぬなど、絶対にあり得ない。  上手《うま》く脱出したに決まっている。彼女は必ず生きている。  昨夜は混乱した真九郎だが、今では冷静にそう思うことができた。  それでも気が重いのは、どうしても不安を拭《ぬぐ》いきれないのは、引っ掛かる点があるからだ。  事件を境に途絶えた、彼女の目撃情報。  そこだけが不可解だった。紅香の性格なら、やられっ放しはないはず。相手が何処の誰であろうとも、必ず反撃する。徹底的に叩《たた》き潰《つぶ》し、自分に手を出したことを後悔させる。  それが今回は、なぜ沈黙しているのだろう?  紅香は今どこで、何をしているのか?  まさか爆発で怪我《けが》を負い、表に出られない状態にあるのか?  以前、紅香は言っていた。  この世界には、最強も無敵もありはしないと。  それはつまり、柔沢紅香でも敗《やぶ》れることがある。死ぬことがある。そういうことなのか。  場内で、また笑い声が起きた。  紫も無邪気な声を上げて笑っていたが、真九郎は、今度は笑わなかった。  ただぼんやりと、スクリーンを見つめた。  悪の方が強い世界。  その不愉快《ふゆかい》な現実から、しばし目を逸《そ》らすように。  映画の上映時間、一時間五十分はあっという間に過ぎた。  真九郎の感想は、特になし。考え事をしながら観ていたので、感情移入できるわけもない。それでも一応、話の筋くらいは把握《はあく》していた。要するに気軽なデートムービーだ。大人の男性に恋をした、幼い少女が主人公。ある日、その少女が、小学校の地下倉庫に住み着いた魔女と出会い、魔法の力で大人になる。そして憧《あこが》れの男性と真剣な恋愛をする、というのが大まかな流れ。最後は前向きなハッピーエンドなので、劇場から出てくる客たちの反応は皆|一様《いちよう》に明るい。  真九郎が感想を尋《たず》ねると、紫は「面白《おもしろ》かった!」と大きな返事。よほど興奮したのだろう。その顔は、ほわーっと上気《じょうき》していた。 「映画というのは、楽しいものだな。まるで夢のようだ!」 「そいつは良かった」 「俳優もすごい。みんな、日本語が達者だ!」 「あれは、声優の吹き替えで……」 「ふきかえ?」 「あー……いや、何でもない」  せっかくの上機嫌に水を差すような気がしたので、真九郎は細かい説明を省略。  九鳳院《くほういん》紫の知らないことは、世の中にたくさんある。でも、焦《あせ》ることはないだろう。  彼女はまだ七歳だ。  知識は、ゆっくり学んでいけばいい。 「たしかに、みんな上手かったな」 「うむ、たいしたものだ! 向こうの小学校を見れたのも面白かったし、他にも……」  身振り手振りを交え、紫は楽しそうに感想を伝える。その姿を見ているうちに、真九郎の頬も緩んできた。この小さな女の子が笑ってくれると、それだけで、真九郎はいつも幸せな気持ちになってしまうのだ。彼女が側《そば》にいることで、自分はきっと救われている。どん底まで、落ち込まずに済んでいる。もし今日のような日を一人で過ごしていたら、真九郎は、襲《おそ》い来る不安に呑み込まれていたかもしれない。  帰り際に売店に寄ってから、二人は映画館をあとにした。  騒がしい歩道に出て時間を見ると、ちょうど昼時。天候は、やや下り坂の気配。取り敢《あ》えず食事を取ることに決め、二人は繁華街《はんかがい》を進む。適当な店を探す真九郎の隣では、紫が感動を反芻《はんすう》中だった。売店で買ったパンフレットを開き、「むう、魔法か……」と夢見るような顔。主人公と自分を、重ねているのだろう。  瞳をキラキラさせながら、紫は言う。 「大人になれば、わたしも手と足が長くなって、今より背が伸びているな……。算数の問題も上手く解けて、漢字もたくさん書けて、ピーマンも食べられるようになってるはずだ!」 「まあ、そうだろうな」 「きっと、胸も大きくなってるぞ! 真九郎、嬉《うれ》しいか?」 「んー……」 「心配するな。ちゃんと真九郎に触らせてやる。遠慮せず、いっぱい触るといい!」  得意げに胸を張る紫に、真九郎は「……ありがと」と苦笑を返す。  九鳳院紫は、どんな大人になるのか?  それはまだわからないが、確実に言えることが一つだけあった。  その頃には、紅真九郎と九鳳院紫の間に、とんでもない差が生まれている。それは今以上の差であり、決定的で絶対的な格差。真九郎が何をしても、決して埋められないもの。  二人がこうして並んで歩けるのは、今だけということだ。  ま、仕方ないよな……。  真九郎は自嘲《じちょう》気味に笑い、少し寂しい未来を思考から追い払う。  そして気を取り直し、紫に質問。 「やっばりおまえも、魔法で大人になってみたいか?」  大人になりたい!  元気にそう言ってくるかと思えば、予想は外れた。  紫は真面目《まじめ》な顔で、こう返したのだ。 「……いや、それはやめておこう」 「えっ、どうして?」 「魔法で大人になり、真九郎をビックリさせるのも面白いだろうが、それだともったいないからな」 「もったいない?」 「わたしは、真九郎と一緒の時間を生きたいのだ。真九郎と一緒に、いろんなものを見て、いろんなことをして、そうして大人になりたい。その時間を魔法で飛ばすなんて、もったいないではないか」  真九郎は咄嗟《とっさ》に、言葉が出てこなかった。ただ無言で、幼い横顔を見つめた。  もしかしたら、と思う。ひょっとしたら、と思う。  例《たと》えば十年先も、自分と彼女は、こうして並んで歩いているのかもしれない。  紅真九郎と九鳳院紫の関係は、ずっと続くのかもしれない。  そんなことを、真九郎は思う。  それは自分の願望。勝手な妄想《もうそう》だろう。だから真九郎は、それを口に出して紫に確認したりはしなかった。約束もしなかった。でも、そうであるかもしれない可能性を、微《かす》かな望みを、そのまま心の奥に仕舞《しま》うことにする。大切に大切に、仕舞っておく。こういう気持ちの積み重ねが、きっと人の原動力になるのだ。この世界を生き抜く、力になる。  真九郎は結局、何を言ったらいいのかわからず、ただ静かに紫へ手を伸ばした。その柔らかな頬を指先で撫《な》でると、彼女はくすぐったそうに笑う。そして、「……あ、そうだ」とこちらを見上げた。 「真九郎、質問がある! 映画の中で、よくわからない場面があったのだ」 「ん、どこだ?」 「主人公が恋人とベッドの中に入り、何やらモゾモゾしている場面だ」 「……ああ」  たしかに、そんな場面があったような気がする。 「隣の席にいた女たちは、笑いながら観ていた。あれは何なのだ? 二人で裸《はだか》になって、何をしているのだ?」 「うーん、それは多分……」 「多分?」 「文学的で、哲学的な表現なんだよ……」 「……なるほど。映画は楽しいだけでなく、難解なところもあるのだな」  ふむふむと頷く紫を見ながら、真九郎は思う。  次に映画に行くときは、やっばり、子供向けの作品にしよう。  基本的に管理業務は行わないので、些細《ささい》なトラブルは各人で解決すること。  五月雨荘には、そんな規約がある。要するに、「管理人は常駐してないんだから何か不便があっても住人たちで対処しろよ」ということだ。では実際どうしているかといえば、4号室の闇絵《やみえ》は不平を漏《も》らさぬ代わりに興味も示さず、6号室の環《たまき》は「トイレの紙が切れてるよー」とか「廊下が汚れてベタベタするー」とか「庭の落ち葉が積もり過ぎー」とか、不平はたくさん漏らすが自分はまったく動かない。なので結局、全ては真九郎の仕事になっていた。肉体労働は苦ではなく、体を動かすことで気が紛《まぎ》れることも多いので、真九郎としては特に不満もないところである。  外出から戻って来た真九郎は、共同玄関の電球が切れかけているのを見つけると、すぐに業務に取りかかった。買い置きの電球を物置から取り出し、脚立《きゃたつ》に乗って古い物と交換。ついでに、共同トイレにトイレットペーパーを補充。その後で廊下にモップがけをし、ちょうど水飲み場で歯を磨《みが》いていた環と、 「真九郎くん、この前の味噌妙《みそいた》め、超|美味《おい》しかったよ! また作ってね!」「はいはい」 「あと、三時のオヤツに何かちょうだい?」 「……はいはい」  などと会話を交わしながら、五月雨荘の管理業務を終了。それからようやく、自分の作業に手をつけることにした。現状における真九郎の優先事項。すなわち、紫に贈るマフラー制作である。昨日の夜は何もできなかったので、多少遅れているのだ。  道具を用意してちゃぶ台の前に腰を下ろし、真九郎はせっせと編み棒を動かし始める。たまに毛糸の玉を足元で転がしたりしながらも集中。力加減を一定にしないと網目《あみめ》が均一にならず、最初は手こずったものだが、コツを掴んでからは順調だった。教本によれば、贈る相手のことを思いながら編むと、仕上がりも自然と綺麗《きれい》になるらしい。真九郎もそれに倣《なら》い、紫のことを思い出してみる。すると浮かんできたのは、別れ際に見た彼女の顔。  九鳳院紫の膨《ふく》れっ面《つら》。  今日は結局、紫と一緒に昼食を取ることは叶わなかった。店を選ぶ前に彼女の携帯電話が鳴り、予定が変わってしまったのだ。連絡してきたのは騎場大作《きばだいさく》。用件は、お茶会への出席。現首相の夫人が催《もよお》す会であり、本来は九鳳院|蓮丈《れんじょう》の夫人が顔を出すはずだったが、別件が入ったので代わりに出席せよ、という指示である。特権階級が頻繁《ひんぱん》に集まるのは、古今東西《ここんとうざい》の世の常《つね》。九鳳院家の子女として、紫はそれに無関係でいられない。真九郎は不満そうな彼女を宥《なだ》め、迎えに来た騎場の車に乗せると、ただ静かに見送ったのである。  予定が狂ったのは残念だが、今日の外出はかなり有意義なものだったと思う。  紫のお陰で欝屈《うっくつ》した気分は晴れたし、紅香の死亡説についても、一応の整理はついた。  とにかく、紅香を信じるしかない。悔《くや》しいが、それが真九郎の出した結論だ。仮に香港まで飛んで行ったところで、自分程度では完全に無力。現地の警察に、まともに相手にされまい。だからといって独自のコネがあるわけでもなく、今の真九郎には、何も打つ手がないのである。そんな中でも、たしかな希望が一つ。  犬塚弥生《いぬつかやよい》。柔沢紅香の忠実な側近《そっきん》にして、隠密《おんみつ》行動を得意とする忍者。  彼女の生死に関しては、裏世界に何ら情報が流れていないのだ。つまり、生存している可能性が極《きわ》めて高い。もし本当に紅香の身に何かあれば、彼女から連絡が入るはず。連絡がないのは、その必要がないという証《あかし》。真九郎はそう考える。今は、そう考えるしかない。  紅真九郎がいつだって痛感するのは、己の無力だ。本当に、どうしてこんなに何もできないんだろうと、自分で自分が情けなくなる。いずれは、何でもできるようになるのか。それとも、いつまでもこのままなのか。  単純作業は、時間の経過が早いもの。  気がつくと二時間近くも経《た》っていたので、真九郎は一息入れることにした。  肩の筋肉を緩めながら、小さく欠伸《あくび》。そして編みかけのマフラーをちゃぶ台の上に載せ、出来栄《できば》えを眺めてみる。色は上品な白。装飾の少ない、シンプルなデザインのマフラーだ。点検してみたところ、網目に乱れはなし。毛糸もいい物を選んだので、手触りも良好。初心者にしては、上出来の部類だろう。問題は、紫が気に入ってくれるかどうかだが、それは今から心配しても仕方がない。  今日の帰り道には、散鶴《ちづる》に贈る絵本を購入した。銀子の趣味に合いそうな小物を扱《あつか》う店は、いくつか当たりをつけた。夕乃《ゆうの》には、例年通り花を贈る予定。  クリスマスに関しての準備は、それなりに整いつつある。 「……さて、グータラ大学生の望みを叶えるとしますか」  真九郎は台所へ行き、戸棚を開けて四角い缶を取り出した。中身はカリントウ。崩月《ほうづき》家にもらったもので、香ばしい食感と濃厚な甘さが心地いい、老舗《しにせ》の名店による品だ。それを一つ口に入れて齧《かじ》りながら、缶の中身を半分ほど木製の器《うつわ》へ。三時のオヤツには大分遅いが、環に届けるとしよう。溜《た》まっているビデオを観るとかで、彼女は今日一日部屋に籠《こ》もりっぱなしだった。どんなビデオかは、だいたいわかる。出所不明のアダルト物か、マイナー映画だろう。環の好むマイナー加減は半端ではなく、真九郎も何度か一緒に観たことがあるが、『散歩する救急車』や『殺人冷蔵庫の逆襲』や『生首女は二度|吼《ほ》える』などの作品群は、しばらく頭がクラクラするほどの内容だった。紫が絶賛した今日の映画は、真九郎にとっては久しぶりの、普通の作品だったわけである。  武藤《むとう》環なら、今日の恋愛映画にどんな感想を抱くか?  どうせ魔法を使うなら、相手を子供にしちゃえばいいのに、とでも言うかもしれない。  苦笑しながらそんなことを思い、廊下に出た真九郎は、そこで足を止めた。  不審《ふしん》な物音を拾ったのだ。  後ろ手に扉を閉めながら耳を澄《す》ましてみると、また同じ音。廊下の端の方から聞こえるのは、階段の床板が軋《きし》む音。一定の間《ま》を置いて響くそれは、明らかに誰かが歩いているもの。  両手で器を持ったまま、真九郎は首を傾《かし》げる。  環は今、自分の部屋にいるはずだ。闇絵は、何処かに出かけている。黒猫のダビデは、昼寝の時間。一号室の鋼森《こうもり》が旅から帰って来た、という話は聞いていない。  では、この五月雨荘の中をうろつくのは誰だろう?  そう考えている間にも、階段からはまた軋む音。  真九郎は、能動的にいくことにした。この土地で争い事はあり得ない以上、過剰《かじょう》な用心は無意味。何者なのか、この目で確認するとしよう。廊下の端へ歩いて向かい、真九郎は階段を覗《のぞ》いてみる。  まったく知らない人間が、そこにいた。  まだ小学校に入る前くらいの、幼い女の子だ。胸にウサギのヌイグルミを抱え、背中には小さな青いリュック。ちょうど二階に上がろうとしていたのか、階段の踊り場から、不思議そうにこちらを見上げている。  ……近所の子、かな?  外で隠れんぼでもしていて、たまたま迷い込んで来たのかもしれない。  真九郎は、まず「こんにちは」と挨拶《あいさつ》。  優しく言ったつもりだったが、まるで効果なし。  女の子はビクッと肩を震わせると、ヌイグルミを抱き締め、二歩後退したのだ。 「えーと……もし迷子だったら、一緒に交番に行くよ?」  階段を下りながらそう尋ねるも、彼女はさらに壁際まで後退。幼い顔に浮かぶのは、友好的とは言いがたい表情。大人に対する警戒心《けいかいしん》。  参ったな……。  真九郎はため息を吐き、この場をどうするべきか悩んだが、そこで気づく。よく見れば、女の子の眼差《まなざ》しはある一点に向かっていた。彼女がじっと見ているのは、こちらの手元。木製の器。  真九郎は、試しに言ってみる。 「これ、カリントウってお菓子なんだけど……食べる?」 「……美味しいの?」  子供らしい反応だった。  真九郎はクスッと笑い、「美味しいよ」と器を差し出す。笑顔の成果か、それともお菓子の力か。女の子は少し迷いを見せながらも、やがておずおずと手を伸ばし、カリントウを一つ摘《つま》んだ。口に入れ、「……甘い」と一言。その素直な反応にまた笑い、真九郎が器ごと渡してあげると、彼女は喜んで受け取った。  そして質問。 「あなたが、もめごとしょりやさん?」 「えっ……?」  あまりに意外なことを訊《き》かれ、真九郎は一瞬ドキッとしてしまった。  紅真九郎は、たしかに揉め事処理屋だ。  それは間違いないが、広く宣伝しているわけではない。  もちろん、表に看板も掲げていない。  彼女は何処で、それを知ったのだろう?  この古いアパートには、そういう仕事の人間がいる。真九郎が感知していないだけで、実は近所で、そんな噂《うわさ》でも流れているのか。  どう答えていいかわからず、真九郎が言葉に詰まっていると、女の子は態度を急変させた。少し慌てた様子で器を返し、ヌイグルミを抱えて、三歩後退。  敵に対するような、険しい顔。 「あなた、わたしの体が目当てなのね?」 「は?」 「だって、もめごとしょりやさんじゃないんでしょ? 幼稚園の先生が言ってた。お菓子をくれる怪しい人は、子供が好きなヘンタイさんだって」 「……いや、俺は全然違うけど」 「じゃあやっばり、あなたが、もめごとしょりやさん?」 「あー……」  この場でシラを切る理由が、真九郎はちょっと思いつかなかった。  困惑《こんわく》を残しつつ、「……まあ、一応ね」と認めるも、その歯切れの悪さが気になったのだろう。「本当に?」と女の子は追及。 「ウソついたら、おちんちんにキックするよ? 男の子は、みんなそれで泣くんだから」  真九郎を睨《にら》みつけ、彼女は威嚇《いかく》するように「うー」と唸《うな》る。  子供だからって馬鹿《ばか》にしないで。幼い瞳は、そう語っていた。  彼女は真剣なのだ。  ならばこちらも真剣に応じるのが、人としての礼儀だろう。  真九郎は片手を上げ、降参《こうさん》を示す。 「本当に、俺は揉め事処理屋だよ。名前は、紅真九郎」 「くれない、しんくろう……?」  小声で名前を繰り返し、女の子はスカートのポケットに手を入れた。折り畳んだメモ用紙を取り出すと、小さな手で開き「……うん、合ってる」と確認。  真九郎は絶句。彼女の持つメモ用紙には、真九郎の名前と住所、さらに電話番号までが記されていたのだ。しかも、漢字には丁寧に振り仮名つき。「それ、どうしたの?」と訊いてみると、「お守り。お姉ちゃんがくれたの」と女の子。 「お守りって……」  紅真九郎の個人情報を持った子供が、五月雨荘を一人で訪問。  これはいったい、どういう事態なのか?  混乱する真九郎をよそに、彼女は平然と己の目的を遂行《すいこう》した。メモ用紙をポケットに戻し、ウサギのヌイグルミを両手で強く抱き締め、真九郎を見上げる。  そして小さく息を吸い、こう言った。 「わたしは、瀬川静之《せがわしずの》。もめごとしょりやさんに、お願いがあるの!」  昨日から続いていた不穏《ふおん》な天気は、ついに終わりを告げた。お楽しみはこれまでだとでもいうように、一気に崩《くず》れ始めたのだ。暗い雲から下るのは、まるで天のダムが決壊したような土砂降《どしゃぶ》り。それに応じるかのごとく強風も加わり、外はさながら嵐の様相。あまりに激しい天候は、人の心を不安にさせる。それは多分、みんな気づいてしまうからだろう。自分自身が、この地上に生きる小さな一個体にしか過ぎないということに。 「……だから、それをあなたに頼みたいの。わかった?」 「うん、まあ……」 「………」 「あ、いや、ごめん! 話は、ちゃんとわかったよ!」  静之にじっと睨まれた真九郎は、慌てて顔の前で手を振り、何度も頷いて見せた。どうやらこの幼い少女は、曖昧《あいまい》な物言いが嫌いらしい。彼女はしばらく真九郎の方を疑わしそうに見ていたが、やがて勘弁《かんべん》してくれたのか、視線を外す。そして握ったスプーンを動かし、食事を再開。  やれやれ……。  真九郎はホッと息をつき、すっかり温《ぬる》くなったお茶を一口飲んだ。安物なのでやたらと苦いが、鈍《にぶ》い頭に活《かつ》を入れるにはちょうどいいかもしれなかった。  静之が食べているのは、冷蔵庫の残り物を使った炒飯《チャーハン》。手早く中華|鍋《なべ》を振るい、料理したのは真九郎。カリントウに対する反応からしてもしやと思い、一応用意してみたのだが、大正解だったらしい。彼女はよほど空腹だったようで、皿の中身は既に半分以下。一心不乱にスプーンを動かす光景は、作った側からすると感無量ではある。  それにしてもよく食べるなあと思いつつ、真九郎は腰を上げ、冷蔵庫からオレンジジュースを持って来た。空《から》になっていた静之のコップに注ぎ、ついでにストローも追加。彼女は炒飯を頬張りながら、「どうぞ、おかまいなく」と大人びた口調で応じ、またパクパクと食べ始める。  自己紹介によれば、彼女の名前は瀬川静之。年齢は六歳。五月雨荘までは電車を乗り継ぎ、たった一人で来たという。住所は都内のアパートで、両親はおらず、姉との二人暮らし。  静之がここを訪れることになった理由。その発端《ほったん》は、十二月九日まで遡《さかのぼ》る。  その日、「じゃあ、お姉ちゃん行って来るね」と言い残し、彼女の姉は家を出た。  そしてそれきり、帰って来なかったのだ。  行き先は不明。携帯電話も通じない。それでも当初、静之は冷静でいたという。姉が何処かに消えてしまうなど、考えもしなかったから。しかし、一日経っても、二日経っても、三日経っても、姉は戻らない。連絡もない。困り果てた静之は、姉からもらったお守り、すなわちメモ用紙のことを思い出した。「この人は正義の味方よ。もしものときは、きっと助けてくれるわ」。姉はたしかにそう言っていた。ならば今こそ、それを役立てるとき。静之はすぐに行動を起こした。荷物をリュックに詰め込むと、一人で電車に乗り、商店街で道を訊き、五月雨荘に到着。そして目的の人物を階段で見つけた彼女は、こう言ったのだ。  もめごとしょりやさん。お姉ちゃんをさがしてください!  それが、静之から真九郎へのお願い。つまり彼女は、真九郎にとって依頼人というわけである。仕事を始めてまだ一年にも満たない真九郎だが、最年少の依頼人だ。おそらくこの先も、記録が破られることはないだろう。  ちゃぶ台の上には、写真が一枚。写っているのは大人しい感じの少女で、名前は瀬川|早紀《さき》。彼女が静之の姉であり、歳《とし》は十六歳。  たいしたもんだな……。  頭の中で整理を終えた真九郎は、写真を少し眺めてから、素直に感心してしまった。真九郎が驚いたのは、瀬川静之の説明能力だった。六歳という幼さは、通常、込み入った会話は困難。思考と言葉が、まだ上手く繋《つな》がらないもの。ところが彼女は、実に要領良く状況を伝えてみせたのである。多分、事前に何度も練習を重ねたのだろう。加えて、その真剣な眼差しが、こちらの理解力を刺激したのかもしれない。それらが功《こう》を奏《そう》し、彼女はこの短時間で、真九郎に自分の話を信用させることにも成功したのだ。 「子供ってのはね、自分で思うほど賢《かしこ》くはないけど、大人が思うほど、バカでもないわよ」  以前、村上《むらかみ》銀子がそんなことを言っていたのを思い出す。ちなみに銀子自身はどうだったかというと、「あたしは、自分が賢いと錯覚《さっかく》しない程度には、賢い子供だった」らしいのだが。  とにかく真九郎は、瀬川静之の話を理解した。信じた。  だがしかし、訊いておきたい点もある。 「静之ちゃん。いくつか、質問してもいいかな?」 「……質問?」  何か難しいことを訊かれる、と思ったのだろう。幼い顔が緊張で少し強張《こわば》るのを見て、真九郎は「わからないことは、言わなくてもいいからね?」と補足。さらに、答えにくいときは握ったスプーンを上げる、それでもう追及はしない、とルールも設定。ゲームのノリだと解釈したようで、静之はコクリと頷いた。  状況を整えた真九郎は、さっそく質問を開始する。  スプーンを握って待ち構える彼女に、まずは無難なところから。 「炒飯の味は、どう?」 「なかなか」 「おかわりいる?」 「んー、甘いのが欲しいかも」 「じゃあ後で、何か用意するよ」  冷蔵庫にアイスクリームがあるので、カリントウの残りと一緒に出してあげるとしよう。  さあ、ここからが本題。 「静之ちゃん。お姉さんのこと、もう警察には言ったのかな?」 「言ってない」 「えっ、どうして?」 「警察の人には、言いたくないから」 「それは……」  彼女はスプーンを上げた。その顔に浮かぶのは、微かな警戒心。警察が好きではない、ということだろうか。少し気になるところだが、ルールなので真九郎は断念。  次の質問。家を出る前のお姉さんの様子は、どうだったか?  普段と違う点があったかの確認だ。  しばし沈黙してから、静之は口を開く。 「……お姉ちゃんに、手紙が来てた」 「手紙?」 「いなくなる少し前に、来てたの。赤くて、嫌な手紙。それを見てから、お姉ちゃん、ちょっと変になった……」 「変て……どういうふうに?」  静之はスプーンを上げた。  口を引き結び、断固拒否の姿勢。 「……じゃあ、その手紙って、何が書いてあったの?」 「知らない」  手紙は常に姉が持っていたので、彼女は中身を見ていないらしい。  赤い手紙で変になった、か……。  現時点では何とも言えないが、真九郎は一応記憶しておくことにした。そして、深く反省する。その話題については触れて欲しくないのか、それとも姉との記憶が甦《よみがえ》ったのか、スプーンを握った静之の手が小さく震えていたのだ。  質問で傷つけては意味がない。  真九郎は頭を掻き、もう少し答えやすそうなものに変更。  どうして、最初に電話しなかったのか?  静之が姉からもらったというメモ用紙。そこには住所だけでなく、電話番号も書かれている。  見知らぬ土地に一人で乗り込むよりは、まず電話をかけてみようと考えるのが普通だろう。彼女の行動は、いささか勇気があり過ぎるような気がした。  この問いに対し、静之は真顔《まがお》で回答。 「本当に大事なことは、会って話さなきゃダメだと思う」 「……なるほど」 「それに、電話だと、声で子供だってすぐにわかるだろうし。そしたら、ちゃんと話を聞いてくれないかもしれないって思ったの」  たしかに、それもそうだ。彼女の正しさに、真九郎は思わず捻ってしまった。  こんな幼い声で、いきなり「お姉ちゃんをさがしてください!」と言われたら、誰でもイタズラ電話と疑う。事情を全て聞いたとしても、本気にするかは微妙なところ。こうして直接顔を合わせ、その真剣味が伝わったからこそ、真九郎も彼女の話を信用したのである。 「それと、もめごとしょりやさんがどんな人か、ちょっと見てみたかったかも」  判断力と行動力に加え、子供らしい好奇心も働いたということか。これまたなるほど、と真九郎は納得。ちなみに感想はどうか、と訊いてみると、彼女は「んー」と悩むように眉をひそめ、「もう少しカッコ良くなったら、恋人にしてあげてもいいよ?」と言った。 「あと、料理が上手なのはとってもいいことなので、これからもショージンしてください」 「……なるほど、よくわかりました」  彼女に苦笑を返し、真九郎は質問を続けた。  その後、メモ用紙は姉がいなくなる数日前にもらったこと。部屋に食料は十分にあり、アパートの大家さんも親切なので、今のところ生活は大丈夫なこと。そして、もしものときは祖母に連絡が取れることなど、彼女からいくつかの回答を得ることができた。瀬川早紀が何処で真九郎の情報を得たのかも気になるが、それは本人に尋ねるしかないだろう。両親はどうしたのか、という点はもちろん不問だ。そんなことは、子供の口から言わせるべきではない。  ひとまず質問が終了したところで、静之はずっと握っていたスプーンを放した。そして青いリュックを手元に引き寄せると、チャックを開き、何やらゴソゴソと始める。彼女が取り出したのは、スーパーで見かけるような小さな瓶《びん》。ラベルの絵柄から察するに、苺《いちご》ジャム。 「ここに来るのに、少し使っちゃったけど……」  そう言って瓶をちゃぶ台に置き、彼女は何故《なぜ》か正座。  そして頭を下げながら、瓶を真九郎の方へと押しやった。 「どうぞ、おおさめください」 「これはご丁寧に……」  釣られて一礼しつつ、瓶を受け取った真九郎は、そこで驚く。よく見れば、中身は苺ジャムではなかったのだ。代わりに詰まっているのは、小額の硬貨。十円玉や、五十円玉。 「おこづかいを、ちょっとずつためたの」  静之は少し自慢げに言う。  これは、空《あ》き瓶を利用した彼女の貯金箱なのだ。 「もめごとしょりやさんて、正義の味方なんでしょ?」 「いや、それは……」 「世の中には、悪い人がたくさんいるし、きっと大変だろうと思って」  言葉に窮《きゅう》する真九郎の前で、彼女はもう一度頭を下げる。 「どうぞ、使ってください」 「……ありがとう」  要するに、カンパってことか……。  瓶の重さを手の平に感じながら、真九郎は内心で感嘆を漏らした。  自分が彼女と同じ年の頃は、とてもこんなには気が回らなかったものである。お金は、あればあるだけ使っていたし、難しい話は苦手で、初めての土地に一人で乗り込む勇気もなかった。自分自身が子供であることに、もっと甘えていたと思う。  瀬川静之はまだ六歳でありながら、ここまで独力でやって来た。真九郎に現状を説明し、信用させ、なおかつ資金援助までしてみせた。全ては姉のため。瀬川早紀を捜して欲しいという、願いのため。 「静之ちゃん。お姉さんのこと、好き?」  彼女は「うん!」と大きな返事。当たり前じゃない、という顔。  そして、側に座らせていたウサギのヌイグルミを両手で持ち上げる。 「これ、モンベエ! お姉ちゃんが作ってくれたの!」 「へえ、凄《すご》いね」 「そうなの! お姉ちゃんは、すごいの! 何でもできるし、きれいだし、優しいし……」  無邪気に話す静之を見ながら、真九郎は決断する。  状況は理解した。彼女の思いも伝わった。  ならば、揉め事処理屋として自分の取るべき道は一つ。  真九郎は瓶をちゃぶ台に戻すと、両手を握って膝《ひざ》に置き、改めて静之へと向いた。  曖昧を嫌う彼女に、ハッキリと告げる。 「瀬川静之ちゃん。君の依頼は、紅真九郎が引き受けた。必ずお姉さんを捜してみせるよ」  断言するのは、真九郎には珍しいこと。多分、彼女の熱意に促《うなが》されてしまったのだろう。静之は一瞬パッと顔を明るくするも、まだ少し不安が残るのか、素直には喜ばなかった。ヌイグルミを胸に抱き締め、上目遣《うわめづか》いに「……本当?」と確認。 「もめごとしょりやさん、お姉ちゃんのこと、ちゃんと見つけられる?」 「大丈夫。ちゃんと見つけるよ」 「お姉ちゃん、家に帰ってくる?」 「うん、帰ってくるよ」 「……ウソついたら、おちんちんにパンチするよ?」 「それは怖いな」  真九郎が困ったような顔で笑うと、ようやく彼女も表清を緩めてくれた。  初めて見せる笑顔。笑うと目じりが下がり、とても可愛《かわい》らしかった。  さて、久しぶりの仕事だな……。  真九郎は軽く頬を叩き、己に気合を入れる。  目的は明快。依頼人にも好感。報酬《ほうしゅう》も十分。条件は最高である。  紅真九郎の持てる力を、尽くすとしよう。 [#改ページ]   第四章 姉から妹へ  十二月十五日。火曜日。星領《せいりょう》学園。  昼休み、購買部でカレーパンとウーロン茶を買ってから教室に戻ってみると、真九郎《しんくろう》の席がなくなっていた。机と椅子《いす》が消え、ポッカリと空《あ》いた隙間《すきま》。寒々しい光景。おいおい二学期のこの時期にイジメかよと真九郎は呆《あき》れるが、さすがにそんなはずもなく、すぐに発見。机は教室の後ろに運ばれ、数人の男子たちに囲まれていた。男子たちの手にはトランプ。机の上には硬貨の小さな山。ゲーム台代わりに使う机に、たまたま真九郎の席が選ばれたらしい。椅子には、胴元《どうもと》らしき男子が腕を組んで座っていた。真九郎は「あのー」と声をかけながら近、づくも、大柄な男子に「あ?」と凄《すご》まれ、あえなく惨敗《ざんぽい》。すぐに視線を外し、「……いや、何でもない」と引き下がる。机を囲む男子たちは、半分以上が知らない顔。他所《よそ》のクラスの生徒たち。一年一組は担任が甘いので、賭《か》け事をする際は溜《た》まり場になりやすいのである。「おい、ボサッとしてんじゃねーよ! 邪魔だろーが!」。男子に突き飛ばされた真九郎は、そのまま教室から退散。背後で笑い声が聞こえたが、それは気にしないことにする。地味で気弱な男子生徒。それが学校内における、紅《くれない》真九郎の地位なのだ。  カレーパンとウーロン茶を抱えて廊下を歩きながら、真九郎は考えた。さて、何処《どこ》で食べようか。今の時間、学食は当然|混《こ》んでいる。交友関係の狭い真九郎には、他の教室に知り合いもなし。今日は朝から小雨が降っているので、屋上も使えない。  こういう場合は、新聞部の部室にお邪魔し、銀子《ぎんこ》と一緒に昼食を取るのが通例。  しかし今は。 「……少し、顔を合わせづらいんだよな」  もしも支払いの件に触れられたら、一言も返せない。藪蛇《やぶへび》は避けるべきだ。  しばらく校舎をうろついた真九郎は、結局、二階の廊下の端にある階段に落ち着くことにした。近くにはトイレと資料室。冷たい空気の溜まったそこは、お世辞《せじ》にも居心地は良くないが、静かなのが利点。これから考え事をするには、まあ悪くない環境だろう。真九郎は階段に腰を下ろし、ようやくの昼食。カレーパンを齧《かじ》りながら、頭の中を整理することにした。  毎年必ず増え続けるのは、自殺者と失踪者《しっそうしゃ》の数。  この二つには、共通点がある。  どちらも、親しい人たちの前から「消えてしまう」ということ。  そして、そうする「理由」があるということ。  偶然自殺したり、たまたま失踪する者はいない。  そこには必ず理由がある。  だから、瀬川早紀《せがわさき》を見つけるには、まずその理由を探るのが先決だった。  そのためには、彼女がどういう人間かを知る必要がある。  真九郎はそう考え、昨日一日学校を休み、仕事に着手。  普段なら銀子の助力を請《こ》うところだが、支払いの済んでない現状では不可能。仕方なく、瀬川早紀の個人情報は別の情報屋から入手した。  瀬川早紀。十六歳。公立高校の一年生。クラスは一年三組。出席番号は十四番。週に五日はコンビニでアルバイト。一年ほど前に両親を亡くしているが、詳細《しょうさい》は不明。  銀子よりも料金は安い分、内容もそれに見合った浅いもの。  文句を言っても意味がないので、真九郎はそれを元に行動開始。まずは、学校の周辺で聞き込みを行うことにした。瀬川早紀の通う公立高校は、生徒が私服。潜入は比較的容易。さらに、威圧《いあつ》感のない真九郎の外見も、こういうときには有効だ。「一年三組の瀬川さんについて、ちょっと、訊《き》きたいことがあるんですけど……」と控《ひか》え目に尋《たず》ねると、ああこれは恋愛|絡《がら》みだろうな、とか何とか勝手に解釈したらしく、口の軽い生徒が何人か答えてくれた。それらを集約すると、「わりと美人」「無口」「勉強はできる」。そんなところが、瀬川早紀の評判のようだった。他には、「遊びに誘っても付き合いが悪い」とか「家が貧乏そう」など、不要な情報ばかり。  これはたいして収穫なしか、と思いきや、一つだけ気になる話も聞けた。  彼女と同じクラスの子に、「瀬川さんて、親しい友達とかいるのかな?」と質問した際、こんな答えが返って来たのだ。 「あの子、なんか暗いし、あんま友達いないんじゃない?」 「そうなんだ……」 「先週から風邪《かぜ》で休んでるけど、みんな、たいして気にしてないし」 「えっ? ……その病欠って、学校に連絡があったのかな?」 「そりゃそうでしょ。朝のHRで、担任が風邪だって言ってたし」 「誰が連絡してきたか、わかる?」 「さあ? 普通は親じゃないの」  瀬川早紀に、親はいない。静之《しずの》でもないだろう。あの幼《おさな》い声では、担任も納得するまい。となれば、それは瀬川早紀本人からと考えるのが自然。自《みずか》ら電話を入れたのは、事態の発覚を遅らせるためか、あるいは別の意図か。どちらにせよ、やはりこの失踪は瀬川早紀が望んだもの。真九郎はそう確信し、学校を離れた。  そして次に足を向けたのは、瀬川早紀のバイト先。  繁華街《はんかがい》にほど近い場所にあるコンビニ。  求人募集の貼《は》り紙を横目に見つつ、自動ドアを開いて店に入った真九郎は、そこで奇妙な偶然を味わうことになった。  店員に、自分の知り合いがいたのである。 「うわーっ、真九郎くんだ!」 「杉原《すぎはら》さん……」  店の隅《ずみ》で棚を整理していたのは、杉原|麻里子《まりこ》。かつて、真九郎にストーカー退治を依頼したことのある女子大生だった。「君とは、また会いたかったのよーっ!」。彼女は真九郎の手を強く握り、満面の笑顔。交流は短期間に過ぎないのだが、よほど印象に残ったのか、しっかり覚えていてくれたらしい。念のために、真九郎がその後の経過を訊いてみると、「もうバッチシよ! まだ彼氏はいないけど、毎日楽しいわ!」と麻里子。 「それは何よりです」  その日初めて、真九郎は本心から笑った。自分が関《かか》わったことで、依頼人の人生が少しでも上向きになるなら、それは揉《も》め事処理屋としての本懐《ほんかい》である。  バイトのリーダー格らしい麻里子は、同僚たちに指示を出し、「店長、ちょっと暇《ひま》ください!」「杉原さん、その人は誰?」「正義の味方!」などと会話をしながら、真九郎を連れて店の奥の事務所へ。 「で、どうしたの? 学生の君が、平日の昼間にこんなところに来るってことは、仕事なんでしょ?」  なかなか察しがいい。  真九郎はさっそく、瀬川早紀のことを麻里子に質問。そしてすぐに、疑問が一つ解消した。あのメモ用紙の出所《でどころ》は、麻里子だったのだ。 「あ、あれか! なるほど、それで君がここに来たわけね……」  麻里子が言うには、瀬川早紀はとても真面目《まじめ》な性格。ヤクザや泥酔《でいすい》客が相手でも嫌な顔一つせず、いつも丁寧《ていねい》に仕事をこなす子。無口なので、バイトの同僚たちからは敬遠されていたが、麻里子とは一応友達だったらしい。「わたし、ああいう人付き合いが下手《へた》な子って、嫌いじゃないのよね……、で、いろいろ話しかけてたら、なんか仲良くなったの」。ところが、そんな早紀が突然、退職願を出した。「先々週のことよ。あんまり急だったんで、もう驚いちゃってさ!」。働き者である早紀は、貴重な人材。店長は引き止めたが、彼女は辞《や》める理由も含めて何も言わなかったという。麻里子が事情を尋ねても、思いつめた顔をするだけで、やはり答えはなし。普通なら、そこで諦《あきら》める、何か事情がありそうだからそっとしておこう。そう考えて、黙って別れる。だが麻里子は、そうしなかった。彼女は急いでメモ用紙を取り出し、ボールペンを走らせたのだ。 「揉め事処理屋の、紅真九郎くん! この人は正義の味方でね、すっごく優しくて、絶対信用できるから、何か困ってることがあるなら相談してみなよ! ……って、思わず住所とか教えちゃったんだけど、もしかして、迷惑だった?」 「いえ、かまいませんよ」  気まずそうな顔をする麻里子に、真九郎は笑いながら手を振った。  揉め事処理屋の業界において、紅真九郎の知名度はほとんどゼロ。口コミで広めてくれるのは、むしろありがたいことだろう。スムーズに情報を得られた点も感謝だ。  麻里子は余計な詮索《せんさく》を、一切しなかった。  真九郎を紹介した身としては、何があったのか気になるのは当然。それでもあえて触れないのは、彼女が成熟した大人だから。 「真九郎くん、早紀ちゃんの力になってあげてね?」  その言葉に黙って頷《うなず》き返し、真九郎はコンビニを離れた。  そして、その日の最後に向かったのは、静之の暮らすアパートだった。  今回の件では、彼女の生活保護も重要な問題。何か手を打つのが常識。真九郎はそう考え、五月雨《さみだれ》荘に移ることを提案したのだが、彼女は「けっこうです」と断り、未《いま》だに一人で生活していたのだ。 「だって、お姉ちゃんが帰ってくるかもしれないし……。そのとき、わたしが部屋にいなかったら、お姉ちゃんビックリするでしょ?」  姉と一緒に過ごした部屋で、事態の解決を待つ。それが静之の希望。真九郎は、「……じゃあ、毎日見に来るよ」と、妥協《だきょう》するしかなかったわけである。  静之と会う前に、真九郎は一階に住む大家に挨拶《あいさつ》しておくことにした。自分は瀬川家の親戚《しんせき》の者です。早紀は今、用事があって田舎《いなか》に帰っています。自分も毎日顔を出しますが、可能な限り、静之に配慮してやってもらえないでしょうか。差し当たって、そんなふうに頼もうと思っていたのだ。  ところが。 「ああ、君が紅くんか……。静之ちゃんのことなら、大丈夫だよ。自分が留守の間は気をつけて欲しいって、早紀ちゃんに聞いてるからね」  こちらが名乗ってすぐに、年配の大家はそう言った。真九郎は「えっ?」と驚くも、本当に驚くべきことはその後に控えていた。大家は一度奥に引っ込むと、封筒を手に戻る。そして老眼鏡をかけながら「うん、これだこれだ」と宛名《あてな》を確認し、封筒を真九郎へ。 「これ、早紀ちゃんから、君に」 「俺に……ですか?」 「君、紅真九郎くんだろ?」 「はあ……」  自分のいない間に、紅真九郎という人がアパートを訪ねて来る。彼が来たら、これを渡して欲しい。瀬川早紀はそう言って、大家に封筒を預けたのだという。  わけがわからなかったが、真九郎はとにかく封筒を受け取った。  中を開けた。手紙を読んだ。  そして事態は解決した。  あっけなく、解決してしまったのだ。  昼休みが半分過ぎたあたりで、真九郎は一旦《いったん》、教室に戻ってみることにした。そろそろ机を返してもらえるかなと期待したのだが、一歩入ったところでさっきと同じ男子に「あ?」と睨《にら》まれ、すぐに回れ右。背中に嘲笑《ちょうしょう》を浴びつつ、逃げるように退場した。  多少|理不尽《りふじん》でも我慢《がまん》。学校で、揉め事は御免《ごめん》だ。  仕方ないので、もうしばらく適当にぶらつくとしよう。  真九郎は軽く息を吐き、校内の喧騒《けんそう》を聞きながら、廊下をゆっくりと進む。  そして緩《ゆる》やかに思考を再開。  消息を絶つ前に、瀬川早紀が大家に預けた封筒。その中には、彼女の書いた手紙が三通入っていた。宛名はそれぞれ『紅真九郎様』、『お祖母《ばあ》ちゃんへ』、そして『静之へ』。真九郎は自分|宛《あ》ての手紙を開き、じっくりと目を通し、愕然《がくぜん》とした。  そこには、以下の事が記されていたのだ。  とある事情があって、自分は姿を消すことになったこと。真九郎の存在は、友人の杉原麻里子から教えてもらったこと。絶対に信用できる人間だと聞いたこと。部屋に残っている静之を、田舎に住む祖母のもとへ連れて行って欲しいこと。祖母に宛てた手紙に事情は書いてあるので、それを渡して欲しいこと。どうか自分の行方《ゆくえ》は、捜さないで欲しいこと。静之にも、そう伝えて欲しいこと。  そして肝心《かんじん》の、瀬川早紀が失踪した理由。  それは要約すれば、短い一行で済む。 『好きな人ができたので駆け落ちします』  つまりは、そういうことだった。  自分が帰って来なければ、静之はお守りに頼る。幼い妹にも読めるよう、漢字に振り仮名を振ったメモ用紙。それに従って、静之は揉め事処理屋に連絡する。自分の捜索を頼む。普通のプロなら、子供など相手にしない。でも、杉原麻里子は言っていた。紅真九郎は、とても優しい人物だと。だからきっと、静之のお願いを聞いてくれる。そして真九郎は、自分のことを調べ始める。その過程で必ず接触するのは、アパートの大家。そこで真九郎が名乗れば、自分の預けた封筒は、大家の手から彼へと渡る。  それが、瀬川早紀の思惑《おもわく》。  静之が真九郎に依頼すれば、あとは自動的に片付くという流れだ。  彼女の計画で狂いがあったとするなら、まさか妹が、一人で五月雨荘に乗り込むとは思わなかったこと。それくらいだろう。それ以外は全《すべ》て、彼女の予期した通りの展開である。  封筒には、現金も同封されていた。自分の後始末《あとしまつ》を真九郎に託《たく》す、そのための迷惑料。何とも抜かりのない計画的失踪、と評すべきか。  平凡な理由。  薄情な別れ。  真九郎は自然と、村上《むらかみ》銀子の言葉を思い出してしまう。彼女は言っていた。 「この世界には、冷たい真実と温かいウソしかない」  ならばこれこそが、冷たい真実。  幼い静之を部屋に残し、瀬川早紀は誰かと消えた。  彼女は実の妹よりも男を選んだ、というわけである。  しかし。 「どうもなあ……」  小雨の降り続く窓の外を見ながら、真九郎はそうぼやいた。  相手の男性について一切記されていないのは、駆け落ちという選択に後ろめたさがあるからだろう。自分から田舎の祖母へ連絡しないのも、おそらくは同じ理由。後始末を真九郎に任せるのは、他に頼めそうな人間がいなかったからか。彼女は、面識のない真九郎を信用したわけではない。友人である杉原麻里子の良識を信じ、それに賭けたのだ。  十代の少女が、色恋|沙汰《ざた》を理由に家出する。そのまま何処かへ消える。  正直、ありふれた事例である。特筆すべき点が見当たらないほど、よくあること。  それにも拘《かか》わらず、真九郎は何か脇《ふ》に落ちないような気がした。  端的《たんてき》に言えば、リアリティが感じられなかったのだ。  静之から聞いた話。学校で聞いた話。杉原麻里子から聞いた話。  それらが示す瀬川早紀の人物像は、ほぼ一致している。  無口で、人付き合いは苦手。でも、とても真面目で、心根は優しい。  それが瀬川早紀という少女だ。  受け取った封筒からも、そのことはちゃんと伝わってくる。万年筆で書かれた、丁寧な文字。順を追った、わかりやすい説明。そして同封してある迷惑料は、全て真新しい紙幣《しへい》。どれもこれも、いい加減な人間にできることではない。瀬川早紀は、本当に真面目で、細かい心|遣《づか》いもできる子なのだろう。  だからこそ、真九郎は違和感があった。  はたしてそんな人間が、幼い妹を一人残して駆け落ちなどするだろうか?  きちんと事後処理を考えた上とはいえ、あまりにも行動が突飛《とっぴ》すぎる。彼女の人柄を考慮すれば、ほとんどあり得ないと言ってもいい。  不可解な点は、まだある。  例《たと》えば、周囲の誰も、彼女の恋愛に気づいた形跡がないこと。  友人の杉原麻里子にさえ、何も相談しなかったこと。  そして、赤い手紙。  失踪する少し前に来たというその手紙を読んでから、早紀の様子は変になった。  静乃は、たしかにそう言っていたのだ。  頭に渦巻《うずま》く、様々な疑問。釈然《しゃくぜん》としない気持ち。  これを解消するには、さらなる調査が必要だろう。しかし、真九郎のやり方ではこれ以上の収穫を望むのは困難。今のところ、不審《ふしん》な人影も、口を割らない怪《あや》しい関係者もなく、まるで突破口が見えないのだ。となれば。 「……その筋の一流に情報収集を頼むのが、最短で最善か」  運良く、身近に凄腕《すごうで》がいる。今は、迷っている場合でもあるまい。  昼休みをあと二十分残したところで、真九郎は思い切って行動を起こすことにした。  まずは、ご機嫌を伺《うかが》うとしよう。  人気《ひとけ》の少ない場所を求め、真九郎は一階の下駄《げた》箱付近まで移動。周囲に生徒がいないのを確認してから、携帯電話を取り出した。  馴染《なじ》み深い番号を押し、電話を耳に当てる。 「もしもし、銀子? 俺だけど……」 「卑怯者《ひきょうもの》」  いきなり不機嫌そうな声だった。 「どうせ、久しぶりに仕事を受けたけどあたしには頼みづらくて適当な情報屋を使ったら失敗してやっばりあたしに頼めるか試しに電話で探ってみようとか、そんなところでしょ?」 「……おっしゃる通りです」  昨日、真九郎が学校を休んだことから推測したのだろう。  幼なじみは何でもお見通し、というわけだ。 「どうぞ、言ってみなさい。何でも調べてあげるわよ? イージス艦のブラックボックスでも、大企業の裏帳簿でも、芸能人のスキャンダルでも。料金さえ払ってくれたら、ね」  さあ、ここからが勝負。  真九郎はちょっと深呼吸。 「……あのさ、その件について、俺から提案があるんだ」 「提案?」 「料金を払いたいのは山々なんだけど、今は生憎《あいにく》と手持ちがなくてさ。だから今回は、紅真九郎への先行投資ってことで、どうかな?」 「月の土地を買うようなものね」  バッサリ斬《き》られた。痛恨の一撃。  やっば、ダメか……。  ガクリと肩を落とし、真九郎が電話を切ろうとしたところで、意外にも銀子の方から「……ま、いいわ」と譲歩《じょうほ》。  出来の悪い息子に手を焼く母親のような声で、彼女は言う。 「その仕事が上手《うま》くいけば、先月の支払いもきっちり完済できるのよね? この時期に受けたんだから、当然、わりのいい仕事なんだろうし」 「ま、まあ……そうかな」 「なら、それに期待して、今回は大目に見ましょ」  とにもかくにも銀子は承諾《しょうだく》。いつも厳《きび》しいけれど、常《つね》に温かい。本当に困っているときは、決して見捨てない。それが彼女。紅真九郎の、ただ一人の親友だ。 「銀子……」 「何?」 「キスしていいか?」 「そのうちね」  クールな反応に苦笑しつつ、真九郎は感謝。そしてこちらの事情を、銀子に伝えた。  さあこれで、いろいろとわかる。  瀬川早紀のことも、その周辺のことも、明らかになる。  問題は、そうなることで何がどう変わるかだ。  果たして事態は、好転するのだろうか?  人間は慣れる生き物である。最初は困難だったことでも、続けているうちに順応し、それなりにこなせるようになるものだ。紫《むらさき》を迎えるため、小学校の校門前で待つことにも、真九郎はかなり慣れてきていた。「あなた、九鳳院《くほういん》家で下働きとかしてる人なの?」「まあ、そんなようなもんです」「まだ若いのに、大変ねえ……」「いえいえ」などという具合に生徒の母親と軽い世間《せけん》話を交わせるくらいの慣れではあるが、自分も変わったものだなあと真九郎は思う。  これが進歩といえるのかは、よくわからないけれど。 「真九郎、出迎えご苦労!」 「どういたしまして」  元気良く飛びついてきた体を柔らかく受け止め、真九郎は紫と合流。そして一緒に下校。 「お腹《なか》が空《す》いた!」と彼女が言うので、途中で適当な店に入ることにした。さっきまでは雨が降っていた天候も、今は小康《しょうこう》状態。寄り道するくらいの余裕はあるだろう。  商店街を歩き、二人が選んだのは『情熱工房』という名のパン屋。まだできてから間《ま》もない綺麗《きれい》な建物で、店の二階は買ったパンをすぐに食べられるカフェ形式だ。レジの横には、『本日は特製メロンパンがオススメ!』とか『フランスパンの焼き上がりは三時半頃です』などと書かれた黒板が置かれ、店の紹介が載っている雑誌の切り抜きも貼られていた。店に入った紫はすぐにトングを握り、棚に並んだ様々なパンを一望。食べ盛りの彼女は、ハチミツ入りのドーナツと、三種類のベリーが載ったタルト、そしてキャラメルソースのエクレアを選択。真九郎は黒糖のクロワヅサンを一つトレイに載せ、レジに向かう。 「真九郎は、それだけか?」 「んー、今ちょっと、食欲がなくてさ」 「……どこか調子でも悪いのか?」 「大丈夫だよ。何でもないから」  心配そうな紫に手を伸ばし、真九郎は小さな耳を指で触った。くすぐったそうに首をすくめ、彼女はクスクスと笑う。その光景が、仲睦《なかむつ》まじく見えたのだろう。レジにいた若い女性の店員が、「妹さんですか?」と質問。紫が即答。 「違うぞ! わたしと真九郎は、恋人だ!」 「えっ……恋人……?」  戸惑《とまど》う店員に「うむ!」と頷き返し、紫は真九郎の手をギュッと握る。 「わたしたちは、将来を誓《ちか》い合った仲である!」 「へえ、そうなの……」 「そうなのだ!」  女性の店員は、物凄《ものすご》く何か言いたそうな目でこちらを見ていたが、真九郎は曖昧《あいまい》な笑みで受け流し、飲み物を注文。素早く清算を済ませ、そそくさとレジを離れた。誤解は人の世の常。多分、正しく理解していることの方が少ない。それでも世界は回る。人間社会はそういうところ、と自分を慰《なぐさ》めてみる。  階段で二階に上がり、二人が腰を下ろしたのは窓側にある席だった。白い円形のテーブルが置かれ、カップルが好んで座りそうな目立つ位置。どこに座ろうか迷う真九郎の手を引き、「ここにしよう!」と紫が決めたのだ。相変わらず決断が早いな、と真九郎は感心する。九鳳院紫という少女は、何かを迷うことがあまりないのだ。その点でいえば、真九郎と彼女は真逆《まぎゃく》なのかもしれない。真九郎は昔から何かを決めるのが苦手で、つまらないことでもよく迷う。幼い頃は、いろんな可能性に目移りして迷っていた。今は、失敗する可能性が怖くて迷っている。そんな真九郎からすると、何でもポンポン決めていく紫を見ているのは、ちょっと気持ちがいい。  席に着いたところでコーヒーカップを持ち、真九郎はそれとなく店内を見回す。床や窓は清潔。空調も適温。テーブル同士の距離も、窮屈《きゅうくつ》すぎない程度。客の半分以上は女性で、全体的に静かな雰囲気《ふんいき》だ。  なかなか悪くない、と感想を抱く真九郎の正面では、紫がさっそくドーナツに手をのばしていた。あーんと大きく口を開け、豪快に齧りついている。九鳳院家の令嬢として、社交界では大活躍しているらしい彼女だが、真九郎と二人きりのときは、その片鱗《へんりん》も窺《うかが》えない。ちょっとだけ行儀が悪く、でも見苦しさよりは愛らしさが勝る、普通の子供。紫がただの七歳児に戻ってしまうのは、それだけリラックスしているという証拠だろうか。だったら嬉《うれ》しいな、と真九郎は思う。  ……よし、始めるか。  真九郎はコーヒーを半分ほど飲んでからトレイに戻し、学生|鞄《かばん》を膝《ひざ》に置いた。中を開き、A4サイズのコピー用紙の束を取り出す。左上をホチキスで留められたそれは、学校で銀子から受け取ったもの。 「ん? それは何だ、真九郎?」 「これは……」  真九郎は少し迷ったが、今、ある人物を捜していること。この紙はそれに使う資料であることなどを、紫に簡単に説明。加えて、早く資料に目を通しておきたいので、しばらく話し相手ができないことも告げた。それを聞いた紫は、「ふむ……」と思案顔になり、腰を上げる。椅子の背もたれを掴《つか》み、テーブルの周りをズリズリと移動。真九郎のすぐ隣まで椅子を持ってきて、再び腰を下ろした。 「真九郎。わたしのことは気にせず、そちらを優先してかまわんぞ?」 「……いいのか?」 「仕事では仕方がないからな」  たとえ会話がなくても、たとえ自分を見てくれなくても、近くにいてくれたらそれでいい。それだけでも、ちゃんと我慢できる。大丈夫。短い言葉と態度でその意思を示し、紫はグレープフルーツジュースのストローを銜《くわ》えた。  その横顔を見た真九郎は、何だか無性《むしょう》に彼女に触れたくなったが、膝の上で手を握り、それを堪《こら》える。とにかく先に、資料を読み込もう。仕事をきちんと済ませてから、この子のためにたくさん時間を使おう。それが今の自分に選べる、最善の道。  真九郎はそう整理すると、軽く息を吸い、思考のチャンネルを切り替えた。黒糖のクロワッサンを口に入れながら、手元の資料に目を落とす。  さすがに村上銀子は一流。短時間で、新たな事実を調べ出してくれた。  まずは、瀬川早紀と静之の両親について。それはかなり意外なもの。二人の両親が既《すで》に亡くなっているのは承知《しょうち》していたが、原因は、事故でも病気でもなかったのだ。夫婦|揃《そろ》って法事に出かけ、そのまま行方不明。そして数日後に、死体で発見された。つまり、何者かによって殺されていたのである。二人が見つかったのは県道沿いの林の中で、第一発見者は、たまたま近くを通りかかったトラックの運転手。立ちションをするために林に入った際、ロープで木に吊《つ》るされた男女の全裸《ぜんら》死体を見つけた。どちらも人相が変わるほど鈍器《どんき》で殴られており、ほぼシヨック死と推測。死体は、貫欲《どんよく》なカラスたちによってかなり食い荒らされていたらしい。それでも身元がすぐに判明したのは、服も下着も何もかも、所持品は全て木の根元に揃えられていたから。無惨な死体をあえて晒《さら》し、現金やカードに一切手をつけていない。すなわち、純粋に殺害が目的。何者かが、殺したいから殺したのだ。その事件を契機に、早紀と静之は今まで住んでいたマンションを引き払い、都内のアパートに移住。両親の遺産と保険金を頼りに、姉妹での生活を始めた。瀬川家は親戚が少なく、最も近い血縁は田舎に住む高齢の祖母だけとなれば、自立を選ぶしかなかったということだろう。  次に、瀬川早紀に関しても、驚くべき事実が判明した。消息を絶つ四日ほど前、彼女は拳銃を購入していたのである。場所は新宿歌舞伎町《しんじゅくかぶきちょう》。売人は地元のヤクザ。堅気《かたぎ》相手でも平気で商売するのは、ご時世というべきか。彼女が買ったのは中国製のトカレフで、値段は十五万円、総弾数は八発。銃刀法のある国内においては、無論、最高の凶器だ。  五月雨荘を訪れた際、静之は言っていた。「お姉ちゃんが変になった」と。  それがどういう意味なのか、真九郎はやっとわかったような気がした。彼女は多分、見てしまったのだろう。テレビやマンガの世界にしかない武器。人を傷つけるための悪い道具。瀬川早紀がそれを家に持ち帰るのを、見てしまったのだ。温厚な姉が突然そんなものを持つようになれば、それはたしかに「変になった」としか感じられまい。早紀はおそらく理由を話さなかったであろうし、そうなれば静之はただ困惑《こんわく》するのみ。真九郎が早紀の様子について質問した際、静之が追及を避けたのも、つまりはそういうことか。自分の姉が悪い道具を所持《しょじ》していると、知られたくなかった。だから警察にも報《しら》せなかった。幼いながらも、静之は精一杯に考えていたのだ。本当に賢《かしこ》い子だな、と真九郎は思う。  瀬川早紀の消息については、まだ不明。有力な目撃情報も、掴めていない。念のため、銀子は海外への渡航者リストも洗ってくれたが、そこにも該当者《がいとうしゃ》はなし。国内にいることが確定しただけでも、成果とするべきか。  両親の事件に関しては、今に至《いた》るも未解決。捜査の遅れに不可解な点があるらしく、銀子が調査中。警察の怠慢《たいまん》など珍《めずら》しくもないし、今回の件と直接関係はないので、思考から除外してもいいだろう。  銀子には引き続き調べてもらっているが、現時点で判明したのは以上だ。  さて、これをどう捉《とら》えればいいのか?  駆け落ち。拳銃。赤い手紙。これらの要素から、何が想像できる? 「……どうしたもんかな」  軽くため息を吐き、コーヒーに手を伸ばした真九郎は、隣の席を見て少し笑った。さっきからやけに静かだと思えば、答えは簡単。いつの聞にか、紫は眠ってしまっていたのだ。空《から》になったトレイの前に両腕を置き、そこに片頬《かたほお》を預けて熟睡中。元気の塊《かたまり》である彼女も、ここしばらくのパーティー行脚《あんぎゃ》でさすがに疲れているのだろう。もちろん、真九郎がちゃんと話し相手をしてやれなかったことも、睡魔《すいま》に負けた一因である。 「ごめんな、退屈させて……」  細くて柔らかい彼女の髪を撫《な》でながら、真九郎は小声で謝罪。自分の態度は保護者失格だな、と深く反省。風邪を引かせてはいけないし、店内も混んできたので、そろそろ帰ることにした。トレイを片付けてから紫のランドセルを肩にかけ、真九郎は寝ている彼女を抱き上げる。そのまま静かに階段を下り、店を出た。  冬の日暮れは早い。辺《あた》りはもう薄っすらと、夕闇《ゆりやみ》に包まれ始めていた。空模様は依然として小康状態。空気は冷たいけれど、風がないのが幸いか。  紫を起こさぬよう気をつけながら、真九郎はゆっくりと商店街を進んだ。  そして考える。  真面目な少女が、ある日突然、男と駆け落ちした。  しかも彼女は、拳銃を持って行った。  これはいったいどういうことだろう?  凶器が絡んだことにより、一見、事件性があるようにも思える。でもそれにしては、周囲に相談したり、助けを求めたりしていないのが不自然だ。両親の件で、早紀が警察に不信感を持っていた可能性もあるが、本当に重大なトラブルを抱えていたなら頼るはず。彼女は警察を頼らなかった。揉め事処理屋にも頼らなかった。ならば、特にトラブルはないのか。単純な駆け落ちに過ぎないのか。それならどうして、拳銃が必要なのか。  真九郎にはわからない。瀬川早紀の思考が、さっばり読めない。こうなってくると、「真面目で優しい」という彼女の人柄すら、何だか疑わしく思えてくる。だからだろうか。正直、真九郎は少し意欲が弱まりかけていた。  重い頭で、試しに仮定してみる。  静之が言っていた「赤い手紙」。  例えばそれが、「早紀の恋人が送って来た手紙」だとしたら?  内容は、自分と一緒に暮らそう。二人で別の街に行こう。そんな誘い文句。それを読んだ早紀は、彼とともに旅立つことを決意。逃避行の苦難を予測して、護身用に拳銃を入手。失踪後のことは揉め事処理屋に一任し、意気揚々《いきようよう》と出発。今ごろ二人は、どこか遠くの空の下、幸せそうに笑っている。愛《いと》しい彼に肩を抱かれ、早紀は笑っている。  乱暴な想像だが、現時点でわかっていることを繋《つな》げていけば、絶対にないとも言い切れないだろう。このまま突き詰めていけば、そんな真実を目《ま》の当たりにすることもあり得るのだ。もしかしたら、それ以上に不愉快《ふゆかい》なものが待ち受けているかもしれない。  だとすれば、ここで調査を止《や》めるのも一つの手。  早紀は手紙に記していた。「どうか自分のことは捜さないで欲しい」と。それは、「詳《くわ》しいことを暴《あば》かないでくれ」、「放っておいてくれ」、そういう意味でもある。ならばそれを尊重し、ここで打ち切るのもありだと思う。  真九郎は、ただ手紙の指示通りに動けばいい。  静之を田舎に連れて行き、彼女の祖母に事情を説明すればいい。  もちろん納得はいかないけれど、それなりに、収まりのいいオチではある。  この件は、それで終わった方が……。 「……しんくろう……」 「ん? どうした?」  急に名前を呼ばれ、真九郎は返事をするも、紫からの応答はなし。どうやら、ただの寝言のようだった。彼女は小さく口を開き、真九郎の制服の襟《えり》をムニャムニャとしゃぶっている。夢の中では、まだ食事を続けているのだろう。「こらこら」と頬を摘《つま》むと、紫は「むう……」とぐずり、仕方なさそうに口を離す。その様子を見て、真九郎は思わず笑った。そして。  ……違う。それでいいわけがない。  冷静になった。本当の意味で、冷静になった。  小さな体から伝わる温《ぬく》もり。唇《くちびる》から漏《も》れる吐息《といき》。赤ん坊のような、九鳳院紫の匂《にお》い。それらは紅真九郎の心を刺激し、思考から余計なものを取り払い、気づかせる。  当たり前のことに、気づかせる。  姿を消した瀬川早紀は、自分のことを捜さないで欲しいと頼んだ。  真九郎は彼女の意志を汲み取り、その通りにしようと思った。  でもそれでは、静之の気持ちはどうなる?  たった一人の家族を失う彼女の気持ちは、いったいどうなってしまうのか?  瀬川静之は、賢い子供である。姉に何か事情があることも、何となく察していると思う。それでも彼女は頼んだのだ。  一人で五月雨荘までやって来て、真九郎に頼んだ。 『もめごとしょりやさん、お姉ちゃんをさがしてください!』  姉のことが大好きだから。どんな事情があろうと、一緒にいたいから。静之は、真九郎に頼んだ。そして真九郎は、それを聞き入れた。必ず捜し出すと約束した。  ならば、自分のやるべきことは。 「……しんくろう……」  腕の中で眠る紫が、また名前を呼ぶ。真九郎の大好きな声で、呼んでくれる。それを聞きながら、真九郎は紫の体を強く抱き締めた。そして、「ごめんな……」と謝る。  この子のためにたくさん時間を使うのは、もう少し後になるだろう。  紅真九郎には、まだ責務がある。  この曖昧な状況に、自分は、きちんと決着をつけなければいけないのだ。  十二月十六日。水曜日。  平日はいつものんびり目覚め、静かに朝食をとってから学校の支度《したく》をするのが真九郎の習慣なのだが、その日は慌《あわ》ただしかった。午前六時には起床。すぐに着替えて納豆《なっとう》ご飯をかき込み、部屋と廊下の掃除。それが終わったところで歯を磨《みが》き、ハンガーから革《かわ》ジャンを取って外出。そして学校ではなく、都心へと向かう電車に乗った。  車内の窓から見える空は、濁《にご》り切った灰色。乗車口の上にある小型の液晶テレビによれば、本日の最高気温は十度、降水確率は四十パーセントらしい。近くにいた若い女性たちが、「今年は降るといいわね」「ホワイトクリスマス?」「そうそう」などと言いながら、楽しそうにはしゃいでいた。  ホワイトクリスマス、か……。  この時期、マスコミがよく使う言葉だが、真九郎にはあまリピンとこない感覚だった。クリスマスに雪が降ると、何がどう特別に嬉しいのか、理解できないのである。たしかに雪は綺麗だけれど、たくさん積もれば交通機関や日常生活にも悪影響を及ぼすし、何より寒い。クリスマスというイベントを純粋に楽しむなら、気候は穏《おだ》やかな方がいいんじゃないだろうか、と思ってしまう。おそらくそんなふうに感じているのは、自分だけだろう。みんなは、ちゃんと理解している。自分だけが共感できない。素直に喜べない。いつも、蚊帳《かや》の外にいる。  微《かす》かに眠気の残る頭でそんなくだらないことを考えているうちに、電車は駅に到着。真九郎はホームに降り立ち、人の流れに乗りながら階段を下った。  学校を休んで街に出た目的は、もちろん瀬川早紀の調査のため。彼女の考え、抱える事情、そしてこれからのこと。疑問と問題は山積みであるが、それらは後で処理すればいい。彼女を捜し出してから、改めて考えればいい。直接会って話せば、全てが丸く収まる解決策が見つかることだって、あるかもしれない。  そう頭を整理した真九郎は、片っ端から調べることにしたのだ。  僅《わず》かでも可能性のありそうな場所を、徹底的に。  事態が急転したのは、その日の夕方。  瀬川家が以前に住んでいた都内のマンション、早紀が通っていた小学校と中学校、さらには両親の殺人事件の現場まで回りながらも、ろくな収穫がなく、真九郎が途方に暮れていた午後四時半頃のことだった。  銀子からの電話。  内容は、素晴らしき朗報。  瀬川早紀の行方に繋がる有力な情報を、ついに掴んだのだ。 [#改ページ]   第五章 星噛《ほしがみ》の要塞  時刻は午後九時。天候はまるで回復の兆《きざ》しを見せず、気温はどんどん下がり、空には星一つなし。世界を隈《くま》なく包むのは、深く冷たい冬の闇《やみ》。  誰もが暖を求めるそんな夜に、真九郎《しんくろう》は一人、暗い歩道に立っていた。  見上げる先にあるのは、灯《あか》りの落ちた灰色のビル。住宅街の端に建つそれはかなり老朽化《ろうきゅうか》しており、おそらく築四十年は下らないだろう。ビルの両隣は、雑草で埋め尽くされた空《あ》き地。道路を挟《はさ》んだ向かい側には、小さな駐車場。辺《あた》りには街灯も少なく、好んで立ち止まる通行人など滅多《めった》にいるまい。  都心から電車で一時間。駅からは、さらに徒歩四十分。銀子《ぎんこ》に教えられた住所に従い、途中で道を尋《たず》ねたりしながらも、真九郎はどうにかここに辿《たど》り着いた。こんな夜更《よふ》けに訪れたのには、もちろん明確な理由がある。  今から一週間ほど前、つまりは瀬川早紀《せがわさき》の失踪《しっそう》した当日の夜。  彼女と思《おぽ》しき人物が、このビルに入って行く姿を目撃されているのである。  銀子が言うには、「信愚性《しんぴょうせい》はそれなり」とのこと。 「あんたから預かった写真とも照らし合わせてみたけど、まず本人に間違いないわね。服装は、動きやすそうなTシャツとジーンズ、それに冬物のコート。靴は履《は》き古したスニーカー。荷物は茶色のボストンバッグ。財布は百円ショップで売ってるような安物。所持金は一万円未満。化粧はしておらず、肌艶《はだつや》は良好。目は、少し寝不足気味。ピアスやネックレスなどの装飾品はなし。髪からは、ほんのりハーブの香り。何かを堪《こら》えるように、硬《かた》い表情をしていた……というのが、目撃者の証言よ」 「……なんか、妙に細かいな。目撃者ってどんな人?」 「女の敵」 「は?」  詳《くわ》しく訊《き》いてみると、情報の出所《でどころ》はインターネット。正確には、個人タクシーの運転手が管理人をしているアングラ系のHPだった。そこでは毎日『今日の美人さん!』というタイトルで若い女性の写真とその容姿の感想が更新されており、その中に、瀬川早紀の写っているものがあったのだ。車内に小型カメラを設置し、気に入った女性客を隠し撮り。それを勝手にHPに載せ、ネタに用いるという手法。早紀に関しては、『俺的評価八十九点! どっか連れ込んで、一発やっとけば良かった!』などの感想と共に、降ろした場所や、彼女の入って行った建物についても記載されていたらしい。モラルの低下は嘆《なげ》かわしい限りだが、今回に限っては、幸運というべきだろうか。  とにもかくにも、真九郎は情報を頭に入れると、さっそく現地に赴《おもむ》いたわけである。 「寒いな……」  そうつぶやき、真九郎は革《かわ》ジャンの襟《えり》を合わせた。吐き出す息は、薄い白。乾いた風が無人の歩道を吹き抜け、空き地の雑草を揺らし、足元を空き缶が転がっていく。不安を煽《あお》るような虚《むな》しい音だ。夜の闇がいつもより濃く見えるのは、空の暗さのせいか。それとも、真九郎の心情がそう見させているのか。  目前のビルがどういうもので、中に何があるのか、それは銀子から聞いて既《すで》に知っている。  倫理《りんり》観は別として、タクシー運転手の証言は一応信用できると思う。  一週間前の情報ではあるが、調べるだけの価値はあるだろう。  だがしかし、どうしてこんなところに彼女が立ち寄ったのか、その理由が真九郎にはわからなかった。彼女に関しては、いろいろと判明するに連れて、逆に疑問が深まる。思考が読めない。人物像も掴《つか》めない。  瀬川早紀とは、本当はどういう少女だったのか?  ひょっとするとこの件は、単純な失踪や駆け落ちではないのか?  優秀な揉《も》め事処理屋、例《たと》えば柔沢紅香《じゅうざわべにか》なら、今|揃《そろ》っている材料だけでも、ある程度の推理と解決策を思いついていることだろう。ただ頭を悩ますばかりの自分は、やはり三流。まだまだ未熟者というわけだ。 「真九郎。万一のときは、臨機応変《りんきおうへん》に対応するのよ? 危険を感じたら、すぐ引き返す。やばいと思ったら、さっさと逃げる。わかった?」  それは銀子からの忠告。  彼女が珍《めずら》しくそんなことを口にしたのは、不器用な幼《おさな》なじみに対する気遣《きづか》い。加えて、この件に深入りする危うさを、彼女なりに予測してのことか。  いずれにしても、動かなければ状況は変わらない。  今は思索より、ひたすら行動あるのみ。 「……よし!」  声を出すことで不安を追い払い、真九郎は気合を入れる。  そして呼吸を整えると、ビルの入り口へ向かって静かに踏み出すことにした。  窓明かりが見えないことから予想はしていたが、一歩入ってみると、ビルの中はひたすら真っ暗だった。照明のない通路を、真九郎は壁に手をつきながら進む。指先に感じるのは、塗り込めたような分厚い埃。空気は思ったほど黴臭くない。見た目の古さに反して、頻繁に人が出入りしている証拠だろう。  入り口にあるプレートの表記は、『科東《かとう》商事株式会社』。主に輸入食品を扱《あつか》う中堅企業であり、一時はかなり手広くやっていたそうだが、それは昔の話。十年ほど前に会社は倒産。それ以降、このビルはまったく別の業種に使われていた。営業時間は、午後八時から明け方まで。完全会員制。昼間は堅くシャッターを閉ざし、部外者の立ち入りを一切禁止。秘密厳守を徹底。そこまで条件を挙げれば、該当《がいとう》するのは数種類だろう。そしてここは、その中の一種だった。  昼間はただの廃ビル、夜は裏の賭博《とばく》場。すなわち、違法カジノである。  現時刻は、午後九時過ぎ。  シャッターは開いており、つまり店は営業中だ。 「さて、どんな店だか……」  瓶《びん》の破片や、空き缶。タバコの吸い殻《がら》や、床を走り回るゴキブリ。それらを横目に見ながら、真九郎は慎重に歩を進めた。じっくり三分ほどかけて、エレベーターホールに到着。店として使われているのは二階以上だが、ボタンを押してもエレベーターは動かない。『ここから店にお入りください』という、親切な看板もなし。階段を使うのが妥当《だとう》と考え、真九郎はそちらへ。念のために耳を澄《す》ましてみると、上から微《かす》かに騒音。緊張感を高めながら、真九郎は階段を上がる。騒音は次第《しだい》に大きくなり、二階に差しかかったところで障害物。  通路を塞《ふさ》ぐようにして、見るからに物騒《ぶつそう》な男たちが立っていた。目つきの悪い、角刈《かくが》りと金髪の二人組。蝶《ちよう》ネクタイにスーツと、服装こそ穏《おだ》やかだが、ここの門番だろう。彼らの仕事は、ビルに迷い込んで来たホームレスや無謀な若者などを排除すること。そして、会員の入店チェックである。  その鋭い視線に怯《ひる》みつつも、真九郎は「こんにちは」と挨拶《あいさつ》し、ズボンのポケットに手を入れた。指に挟んで抜き出した会員証を、二人組に提示する。 「どうぞ、確認してください」  二人組は少し不審《ふしん》そうな顔をしていたが、真九郎が愛想《あいそ》笑いを浮かべると、単なるガキと判断した様子。会員証を受け取り、専用の機械で照合開始。  忍耐強く愛想笑いを続けながら、真九郎は軽く拳《こぶし》を握った。  渡した会員証は無論、偽造品だ。ここに来る途中、偽造屋と接触して入手した物である。違法な場所に踏み込むために、別の違法な手段を用いるというのは皮肉な話。もしものときは強行突破するつもりだったが、偽造屋はきちんと仕事をしてくれたらしい。照合はすぐに終わり、会員証も返却。真九郎の前に進路が開かれた。「ご苦労さまです」と頭を下げながら、真九郎は階段を上がって二階へ。そして。 「凄《すご》いな……」  目前に広がる光景に、思わず息を呑《の》んだ。  違法カジノ自体は、実はたいして珍しくもない。都内の雑居ビルを覗《のぞ》けば、その種の店はいくらでも見つかる。マンションの一室が店、という例もよくあること。しかし、これほどの規模になると国内には滅多にないだろう。邪魔な壁は豪快にぶち抜かれ、広いワンフロアが丸ごと店舗《てんぽ》。ふかふかの絨毯《じゅうたん》の上に、十数台のスロットマシンとギャンブルテーブルが整然と並んでいた。スロットマシンのサイレン、受け皿にぶつかるコインの音、そして客の怒声《どせい》と笑い声。それらにアルコールとタバコの臭《にお》いが混ぜ合わさった空気は、まさに賭博場そのもの。警戒《けいかい》のため、窓ガラスにスモークシートが貼《は》られているのがいかにも違法の地。かつて会社のオフィスとして使われていた名残《なごり》は、もはや何処《どこ》にも見当たらない。近隣の住民たちも、まさかこんな古いビルで夜な夜なギャンブルの祭典が開かれているとは思いもしないだろう。  真九郎はこういった雰囲気《ふんいき》が苦手だったが、長く立ち止まっていては無意味に目立つ。なるべく平静を装いながら前進。一喜一憂する客たちの姿を眺《なが》めつつ、店の隅《すみ》へと足を向けた。観葉植物に囲まれたそこは、小さなカクテルバー。ゲームで遊ばずとも、あまり目を引かない場所。真九郎は一番端の席に腰を下ろすと、指先でテーブルをノック。こちらを向いた、バーテンダーに「どうも」と軽く会釈《えしゃく》し、壁に貼られたメニューの中からコーラを注文した。この種の店は、基本的に飲食物は無料。料理はサンドイッチなどの軽食からステーキまであり、酒も飲み放題である。客を長居させるための工夫というやつだ。  バーテンダーはきびきびと動き、ほんの十秒ほどで注文の品がテーブルに置かれた。清潔そうなグラスに、白いコースター。接客はまともだなあと感心しながら、真九郎はグラスに口をつける。そして改めて、店内を眺めた。  ざっと見渡したところ、このフロアにいる客は百人前後。ビル全体なら、その四、五倍か。風貌《ふうぼう》や飛び交《か》う言葉からして、国籍は様々。どのテーブルにもタバコと銃が当たり前のように並べて置かれ、客たちの顔に浮かぶのは狂乱に慣れ切った笑み。葉巻を吹かし、スロットマシンを叩《たた》く者。チップの小山を前に、奇声を上げる者。女を抱き寄せながら、手元のカードを睨《にら》む者。ゲームに参加せず、グラス片手に立ち話をしている者もいるが、いずれも堅気《かたぎ》ではないだろう。指名手配のポスターで見たような顔も、ちらほらとある。通常、違法カジノを利用するのは大半がギャンブル好きの一般人なのだが、ここの客層は違うらしい。  なるほどね……。  銀子が忠告してきたのはこういう訳か、と真九郎は納得した。  たしかにここは、かなり危険な店である。規模と客層からして、バックについているのは海外のマフィアか、それに比肩《ひけん》するような組織。それも、警察を抱き込むほどの力を持つ大組織だろう。でなければ、これだけ派手《はで》にやって捜査の手が伸びないことなどあり得ない。もしこんな店でトラブルを起こせば、待っているのはリンチか拷問《ごうもん》。最悪は死。そう考えれば、両隣が空き地という立地条件も便利な話だ。店内から出た生《なま》ゴミは、すぐに埋められる。  ネットで死体処理セットを注文したら、届いたのはスコップでした。  そんなブラックジョークを思い出し、真九郎は少しだけ笑った。そしてグラスを傾けながら、考える。瀬川早紀がこの店を訪れたのは、家を出たその日の夜。タクシー運転手の証言によれば、彼女は脇目《わきめ》も振らず、真《ま》っ直《す》ぐこのビルに入って行ったという。  駆け落ち。拳銃。赤い手紙。違法カジノ。これらの要素はどう繋《つな》がるのか?  家を出た当日に、彼女はここに何の用があったのか?  それを解明するのが、真九郎の今日の目的だ。手当たり次第に聞き込みをしたいところだが、大っぴらにやれば店側にマークされる。対応を間違えれば、血を見ずには済むまい、取り敢《あ》えず、いろんなフロアを回りながら隙《すき》を窺《うかが》う。口の軽そうな客や店員を見つけたら、写真を見せて質問。やばくなったらすぐ撤収。今夜の方針としては、そんな感じだろう。  気持ちを固めた真九郎は、一息でコーラを飲み干し、グラスをテーブルに置いて席を立った。カクテルバーを離れ、スロットマシンの脇を通って店の奥へ。両開きの扉を抜け、非常階段に出る。蛍光灯の切れた薄闇《うすやみ》。肌に染《し》みる冷たい空気。それに一瞬だけ震えてから、上を目指す。このビルは六階建てであり、二階以上は全て店舗だ。まずは最上階に行こうと思い、狭い階段をゆっくり上がり始めたところで。  うわ……。  むせ返りそうな臭気《しゅうき》に、真九郎は思わず足を止めた。  鼻を突くのは、濃厚なアルコールの臭い。息を潜《ひそ》めながら目を凝《こ》らすと、暗がりに人影を発見。壁際の辺りに、誰か座り込んでいるようだった。髪が長いので、おそらくは女性。階段を移動中に酔い潰《つぶ》れたのだろう。  泥酔《でいすい》客の姿だけは、居酒屋と同じか。  この場を素通りしては道義に反するので、真九郎は一応、声をかけることにした。 「あのー、大丈夫ですか?」  数秒待ってみたが、返事はなし。再度、「大丈夫ですか?」と少し大きな声で呼びかけるも、やはり返事はなし。女性はピクリとも動かない。  ……死体、じゃないよな。  不安になった真九郎が慌《あわ》てて駆け寄ると、その足音でようやく気がついたらしく、女性は反応。「んあ?」とだるそうに上げた顔は、予想外に若かった。まだ十代。真九郎より、一つか二つ年上だろう。真っ赤な髪と勝気な瞳《ひとみ》。身にまとうのはシャツとネクタイ、その上に黒のロングジャケット。下はミリタリーパンツとブーツ。そして右手にだけ、革の手袋。酒に染まった赤ら顔を除けば、容姿もセンスも見事に尽きる。  まさかこんな場所で、自分と同年代の少女に出くわすとは。  しばし面食《めんく》らいながらも、真九郎は三度目の「大丈夫ですか?」を発した。 「調子が悪いようなら、店員を呼んで来ますよ? それとも、救急車にしますか?」 「そと…て……」 「えっ?」 「……そこの、わたしの、飲みかけ、取って……」  のろのろと腕を持ち上げ、彼女が指差したのは階段の隅。真九郎がそちらに近づいてみると、一リットルサイズのボトルが一つ、無造作《むぞうさ》に転がっていた。怪諺《けげん》に思いながらも手に取った真九郎は、ラベルの表記を見て唖然《あぜん》。  ひょっとして……これを飲んでたのか?  それは薬用のアルコール。もちろん人体には有害であり、こんなものを口にするのはアル中の患者くらいである。ラベルにもしっかり、『飲用不可』の文字。  既に中身が半分減っていることに呆《あき》れながらも、真九郎は常識的な注意をした。 「……あの、余計なお世話かもしれませんが、これ飲み物じゃありませんよ?」 「いーのいーの。それ、味は最悪だけど、すっげーっ効《き》くのよ」  それは効くだろう。  純度九十五パーセントである。 「細かいことはいーからさ、それ、早くこっちにちょうだい」 「いや、これは、本当にやめた方がいいです。少量ならまだしも、これだけ飲めば、命に関《かか》わりますよ。きっと肝臓《かんぞう》にも……」 「……死んでやる」 「は?」 「もう飲ませてくれないなら、死んでやる——————————————————っ!」  耳をつんざく喚《わめ》き声。  彼女は拳を振り回し、断固として抗議。 「手首を切って死んでやる! 毒を呷《あお》って死んでやる! 首を吊《つ》って死んでやる! 頭を撃って死んでやる! ビルから落ちて死んでやる! 車に礫《ひ》かれて死んでやる! 電車に礫かれて死んでやる! 戦車に礫かれて死んでやる! 死んでやるったら死んでやる! 本当だぞ! わたしからアルコールを取り上げるってんなら、もう死んでやるからな!」  メチャクチャ迷惑な人だった。  床の上でジタバタする姿は、まるで駄々《だだ》をこねる子供。喚き散らす声が周囲のコンクリートに反響し、少し鼓膜《こまく》が痛い。彼女がどうしてここに放置されていたのか、その理由が、真九郎は何となくわかったような気がした。多分、店側が処置に困ったのだろう。これが男の泥酔客なら、暴力で強制退場。しかし、相手が容姿|端麗《たんれい》な女性とあっては、扱いにも気を遣《つか》う。下手に触れず、酔いが醒《さ》めるまでそっとしておくのが無難、ということか。  声をかけたことにちょっとだけ後悔しつつも、真九郎はこの場を収めるために提案。 「お酒が好きだってことは、とてもよくわかりました。でも、どうぜ飲むなら、美味《おい》しいお酒にしませんか?」 「……美味しいお酒?」 「すぐそこに、カクテルバーがあります。意外と種類も豊富ですし、サービスも悪くない。そっちの方が、気持ち良く酔えると思いますよ?」  本当なら飲酒自体を止めたいところだが、この種の人間に「飲むな」と正論をぶつけても効果はない。穏便《おんびん》に酔わせ、そのまま眠らせるのが次善の策だ。そのへんは、隣に住むグータラ大学生との付き合いで学んだ知恵である。  彼女は不満そうに眉《まゆ》をひそめるも、意外と冷静だった。  一応、まだ思考力は残っているのだろう。  飲みかけのボトルを見ながら薄く目を閉じ、「……まあ、それもいっかな」と折れる。 「たまには、普通のお酒にしようかしら……。あんま効かないんだけど」 「その方がいいですよ、絶対」 「もちろん、君も一緒に来るのよね? 言い出しっぺなんだし」 「いやー、俺は……」 「……死んでやる」  本当に迷惑な人だった。  これも何かの縁《えん》と諦《あきら》め、真九郎は少しだけ付き合うことにする。どうせ今夜は徹夜覚悟。ある程度収穫があるまで、ここを離れることはできないのだ。多少の寄り道くらいは、良しとしよう。  目的が定まったところで、彼女はやっと床から腰を上げた。緩慢《かんまん》な動作で立ち上がり、服の汚れを払いながら「ふわぁ」と小さな欠伸《あくび》。  そして、のんびりした口調で言う。 「……そういえば、君、名前は? まだ聞いてないでしょ?」 「紅《くれない》真九郎です。あなたは?」 「星噛《ほしがみ》絶奈《ぜな》」 「え……」  驚く真九郎をよそに、彼女はもう一度欠伸を漏《も》らした。  それをたっぷり五秒ほどかけて噛《か》み殺し、ニンマリと笑う。 「わたしは、星噛絶奈。ピチピチの十七歳。よろしくね?」  たいていの場合、ビルの上に位置するほど高級な店舗が入っているものだが、それはこの違法の地でも例外ではなかった。最上階にあるのはカクテルバー。ただし、いくらか乱雑さの漂う下の階とはまるで趣《おもむき》が違う。一部の会員のみが利用できる、特別なフロアだ。天井には煙《きら》びやかなシャンデリア。絨毯の上に置かれているのは、革張りのソファと強化ガラスのテーブル。照明は暗めに調節。壁一面は総ガラス張り。店内にしっとりと流れるのは、ラフマニノフのピアノ協奏曲。その豪奢《ごうしゃ》な内装に相応《ふさわ》しく、客層も比較的穏やか。何らかの組織で、高い地位にいる者たちが大半であろう。  自分の席は、きっと周りから激しく浮いてるな、と真九郎は思う。  まだ未成年だとか新顔だとか、そういった瑣末《さまつ》な理由からではない。  単純に、騒がしいからである。 「でね、そうやって逃げ場を塞いだところで、わたしが殴り込みをかけたのよ。いつも余裕かまして笑ってる顔に、ガツーンと一発! ついでに、派手で目障《めざわ》りな車にも一発! 向こうはメッチャ混乱してたけど、もちろんかまいやしなかったわ。そのあとで、予《あらかじ》め仕掛けてたのがバンバン作動して、もうあっちこっちでドッカーン……ってなったわけ」 「はあ……」 「はあ?」 「あー、いえ、つまり、そのムカつく人とケンカして、勝ったってことですよね?」 「そうそう、そういうこと! わたしが勝ったの! 完壁《かんぺき》大勝利! まあ、自分で言うのも何だけど、わたし、無敵だからね。その記録に、また新たな一ページ加わったわけでさ……」  へえそうなんですか、と適当に相槌《あいづち》を打ちながらボトルを掴み、真九郎は絶奈の持つグラスにテキーラを注いだ。  別に、ご機嫌を取るためにやっているわけではない。単なる常識的行動。そうでもしないと彼女はすぐに一気飲みを始めてしまい、際限なく酒量が増えていくのだ。テーブルの上には、空《から》のボトルが既に十数本。それでも精一杯コントロールした結果である。「でねー、わたし、その大勝利をあちこちに宣伝してさ……」「ははあ、なるほど」。愛想笑いで会話を続けながら、真九郎はボトルをテーブルの端に置く。そしてチラツと腕時計に目をやり、内心でため息をついた。  今夜は、本当に徹夜になりそうだな……。  このフロアに入り、窓際の上等な席に案内されたのが一時間ほど前。「どうせなら広いとこで!」と言い出した絶奈に強引に連れて来られたわけだが、それからずっと、ひたすら、彼女はこの調子なのである。四人掛けのソファに腰掛け、グラス片手に独演会。それも、「一対五百のデスマッチで勝った」とか「装甲車《そうこうしゃ》をパンチで引っくり返した」とか「逃げた相手を地球の裏側まで追いかけてぶちのめした」などの武勇伝。今は、長年ムカついていた相手をようやく倒したという話を披露《ひろう》している最中だった。かなり酒が入っているためだろう。どれもこれも妄想《もうそう》が付加されており、まともに聞くのは少し苦痛。それでも根気強く付き合ったお陰《かげ》で、彼女がどういう人物なのか、真九郎は一応|把握《はあく》することができた。  星噛絶奈。十七歳。学生ではなく、会社員。仕事は主にデスクワークで、たまに海外出張や肉体労働もあり。好物は納豆《なっとう》。彼氏募集中。過度の飲酒に関しては、「わたしの感覚を揺さぶってくれるのは、これくらいなのよねー」とのこと。最上階に出入り可能な点からもわかる通り、この店の特別会員で、しかもかなりの有名人らしい。店員の対応は、まるで腫《は》れ物にでも触るように丁寧《ていねい》であるし、彼女がどれだけ騒いでも、苦情を言ってくる客は皆無《かいむ》。多分、注意しても聞かない迷惑な客として知られているんだろうな、と真九郎は思う。それでも追い出されないのは、この店が意外に良心的ということなのかもしれない。  彼女が裏十三家の一つ、〈星噛〉の人間であることについては、真九郎はひとまず横に置くことにした。過去の経験から、油断は禁物。しかし、敵でも味方でもない現状では、普通レベルの警戒が妥当。真九郎はそう考え、おとなしく彼女と同席しているわけである。  絶奈の一方的な話が終わったのは、六階に来て二時間後。テーブルの上に、チェスができるほどのボトルが並んだ頃だった。  散々《さんざん》話してスッキリしたらしく、彼女は満足げに笑いながら足を組み、ソファに深く沈み込む。そして、「ところでさー」と、初めて真九郎に話題を振ってきた。 「君、何しに来たの? 酒も麻薬もやんないみたいだし、ギャンブルやるほどお金も持ってなさそうだし、こんなとこ用がないでしょ? 女でも買いに来た? もしそうなら、わたしが知り合いの業者を……」 「いや、全然違います」 「えっ……? それってまさか、わたしを口説《くど》いてるってこと?」 「それも違います」  片手を開いて苦笑しつつ、真九郎は自分のグラスに口をつけた。適当な相槌でも、続けていれば意外と疲れる。冷たいウーロン茶を喉《のど》に流し込み、いくらか気力を回復。グラスをテーブルに戻し、「まあ、ある意味、ここに来たのは女性|絡《がら》みなんですけどね……」と、こちらの事情を切り出す。最初の聞き込み相手が裏十三家の人間になるとは思わなかったが、話題としては、それほど不自然ではないだろう。  自分が揉め事処理屋であること。依頼を受けて、とある少女を捜していること。その手掛かりを求めてこの店を訪れたことなどを、真九郎は手短に説明。ついでに、瀬川早紀の写真も提示してみた。 「へえ、揉め事処理屋……」  自分の話にも飽きたのか、絶奈は何やら興味ありげ。「どれどれ」と写真を手に取り、「ふーん」と眺める。 「でもさ、何か変じゃない? この写真の子って、堅気なんでしょ? この店、規定ガチガチでもないけど、普通の女子高生が利用するにはハードルが高いと思うわ」 「そこは、俺も変だと思うんですが……」 「この子が店に来たってのは、確かな情報なの?」  真九郎が頷《うなず》くと、絶奈は思案顔になり、また写真を見つめた。  さすがに裏世界の人間。酔っていても呑み込みが早い。すぐに頭を切り替え、冷静に事態を認識したようだった。グラスのテキーラを半分ほど飲んでから、「じゃあ、ちょっと訊いてあげる」と絶奈。それがどういう意味か真九郎が尋ねる間もなく、彼女は左手の指をパチンと打ち鳴らす。気づいた店員に、「支配人呼んで来て! 大至急!」と命令。 「いや、星噛さん、そこまでしてもらわなくても……」 「気にしなくていいわよ」  絶奈が言うには、この店の出資には彼女の会社が関わっており、支配人とも顔見知りらしい。それでVIP扱いなのか、と真九郎が独りこちていると、店の奥から男が近寄って来た。  他の店員たちと同じ黒服。しかし、格の違いは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。周囲を圧倒する上背《うわぜい》に、感情の欠落した能面《のうめん》。硬質な筋肉に包まれた分厚い体。髪の毛の一本から魂《たましい》まで、全《すべ》て鉄でできていそうな巨漢だった。この男に比べれば、下の門番などただのチンピラに過ぎまい。  席の側《そば》までやって来た男は、「支配人、ゲルギエフでございます」と重々しい声で名乗り、両手を腰の後ろで組んだ。姿勢を正し、深々と一礼。 「絶奈様。本日のご来店心より……」 「先週、この写真の子が店に来たかわかる?」  挨拶を遮《さえぎ》り、絶奈は不躾《ぶしつけ》に質問。彼女はいつも、こんな調子なのだろう。支配人は少しも表情を変えることなく、機械的な動作で写真に目を落とした。短く頷き、「記憶しております」と返答。 「あっ、本当に来てるんだ……。じゃあ、そのへんの詳しいことを、こっちの彼に教えてあげてよ」 「申し訳ございません、絶奈様。それはできかねます」 「えっ、何で?」  きょとんとする絶奈に、支配人は巨体を折り曲げて耳打ち。店内を流れるクラシックが、やけに大きく聞こえる十数秒の間《ま》。「なーんだ、そういうことか!」と絶奈は手を叩く。 「それでここに来たってわけね。言われてみれば、この写真の子、参加者の中で見たような気もする。んーと………… ああ、思い出した。あの子か」  支配人を追い払い、絶奈は「なるほどなるほど」と一人で完結。  そしてグラスを持ち上げ、真九郎に顔を向けた。 「ごめんねー、紅くん。悪いんだけど、この件は諦めて?」 「諦めるって……」 「君には話し相手になってもらったし、できるだけ便宜《べんぎ》を図ってあげたいとこなんだけど、これは業務に関わる機密事項でね。部外者には、おいそれと明かせないのよ。まあ、そんなこと言われたって君も困るだろうから、ここは、わたしが違約金を肩代わりするってことで、依頼主に説明を……」 「ちょ、ちょっと待ってください!」  参加者。業務。機密事項。部外者。  いったい何のことかわからない。  だが一つだけ、真っ先に確かめるべきことがある。 「星噛さん。あなたは、瀬川早紀をご存知なんですか?」  絶奈は答えなかった。  思わぬ展開に当惑《とうわく》する真九郎とは対照的に、彼女はまるで平静。  何をそんなに慌てているのかわからない、とでも言いたげな顔。  苛立《いらだ》ちを抑えつつ、真九郎は食い下がる。 「……これは、真面目《まじめ》な質問なんです。答えてください」 「んー、知ってるような、知らないような……」 「彼女は今、何処にいるんです?」 「穴の中、かな」 「……穴?」 「まあまあ、そんな怖い顔しないでよ。これは、別にたいした話でもないんだから」  真九郎の必死さを茶化《ちゃか》すように、絶奈は声を上げて笑った。  グラスに一度口をつけ、軽い調子で続ける。 「この世の中には、至《いた》るところに落とし穴があるわ。浅い穴なら蹟《つまず》く程度で済むけど、中には、どこまでも深くて暗い穴がある。一度落ちたらもうおしまい。そういう穴がある。瀬川早紀って子は、たまたま、そういう穴に落ちちゃったのよ。要するに、運が悪かった。そういうことで、納得してくれない?」 「……納得できると思いますか?」 「そんなの、君の心の問題でしょ?」  真九郎は一瞬頭に血が上りかけたが、どうにか堪《こら》え、絶奈から視線を外した。横にある窓に目を移し、そっと息を吐き出す。窓の向こうに広がるのは、住宅街の灯り。天候の悪さとスモークシートの相乗効果で、どこか幻想的な夜景。それを見つめながら、何度か深呼吸。  いきなり大当たりを引いたってわけか……。  絶奈の態度からして、何か知っているのは明白だ。  最初の聞き込みでこれとは、運が良いやら悪いやら。  予想外の事態だが、ここで感情的になっても意味はないだろう。  交渉《こうしょうつ》の才がない自分にできるのは、冷静に話をすることだけなのだ。  深く息を吐いて気を落ち着け、真九郎は改めて絶奈に目をやる。 「星噛さん。瀬川早紀には、幼い妹がいます。彼女は、たった一人の肉親である姉の帰りを、家で待っています。こうしている今も、待っています」  絶奈は無言でグラスを揺らし、中の氷を鳴らしていた。  膝《ひざ》の上で拳を握りながら、真九郎は話を続ける。 「参加者とか業務とか、そんなこと俺は知らない。あなたがどういう意図で、何をしているのか、興味もない。俺が知りたいのは瀬川早紀の所在であり、俺の仕事は、彼女を無事に妹のもとに連れ帰ることです。それが叶《かな》うなら、あなたの責任は一切問いません。この件で俺が知った情報も、他に漏らさないと誓《ちか》いますし……」 「紅くん、どうしてもダメ? 諦められない?」 「……俺は、揉め事処理屋ですから」 「じゃあ、取引といきましょうか。それによっては、万事解決しちゃうかも!」 「取引?」  突然、何なのか。  戸惑《とまど》う真九郎をよそに、絶奈は何故《なぜ》かウキウキした様子でジャケットのポケットに手を入れた。そこから何かを摘《つま》み出し、酒瓶《さかびん》を端にどかして、テーブルの真ん中に置く。  一見するところ、それは普通の腕時計。 「まずは、これを見て欲しいんだけどさ……。どう?」 「どうって……」  わけがわからなかったが、真九郎は取り敢えず発言を控《ひか》えた。現状、こちらに切れるカードは一枚もないのだ。悔《くや》しいが、ここは相手の出方に合わせるしかあるまい。  テーブルに手を伸ばし、真九郎は腕時計を観察。暗い照明の下で目を凝らす。  間近《まぢか》で見てみると、それはかなりいい時計だった。  アクセサリーの類《たぐい》に興味がなく、時計も安物しか使わない真九郎だが、質の良《よ》し悪《あ》しくらいはわかる。男物の自動巻き式。おそらくは、特注品だろう。針や金属製のベルトなど、パーツの一つ一つが精巧。職人の高い技術が感じ取れる。装飾の少ないシンプルなデザインにも好感。持ち主の名前のイニシャルなのか、文字盤の裏には、アルファベットで『J・J』と刻印《こくいん》されていた。  店員を呼び止め、テキーラとブランデーを注文してから、絶奈は説明を始める。 「実はね、わたしも今、君と同じように人を捜してるのよ。捜してるのは、その腕時計の持ち主。これが、雲をつかむような話でね……。名前も年齢も性別も不明で、写真の一枚もない。つまり手掛かりは、その腕時計だけってこと。どれだけ大変か、わかるでしょ?」 「まあ、それは……」 「わたしなりに手を尽くしたけど、今のところ収穫はゼロ。でもひょっとして、君なら、何か知ってるかもしれないと思うのよね。もし情報を持ってたら、取引しましょう。それと交換で、瀬川早紀ちゃんの件は全部教えてあげる。何なら謝礼を払ってもいいし」 「はあ……」  取引自体は願ってもないこと。穏便に片付くなら大歓迎。  しかし内容が唐突《とうとつ》過ぎて、イマイチついていけなかった。  絶奈は今、人を捜している。とても難航している。  そこまでは理解できるが、なぜ真九郎がその情報を持ってるかもしれないと思うのか?  彼女がそう考える理由が、まったく読めない。  まさか、この場を煙《けむ》に巻くための作り話でもないだろう。  ……何かの謎掛け、とかじゃないよな。  話をどう捉《とら》えていいかわからず、真九郎が反応に窮《きゅう》していると、絶奈は少し笑った。  腕時計を手の平に載せ、目を細めながら言う。 「これの持ち主はね、揉め事処理屋に関係する人物なのよ」 「揉め事処理屋……ですか?」 「そう。だから、同じ業界に身を置く者として、君が何か噂《うわさ》を耳にしたことあるんじゃないかなーって思ったわけ。何しろその揉め事処理屋は、超がつくほどの有名人だからね」 「有名人?」 「名前は、柔沢紅香」  いつの間にか、店内の音楽は途絶《とだ》えていた。  不意に訪れた空白。嫌な静寂。  自然と息を潜める真九郎の隣で、絶奈の話は続いた。 「既に知れ渡っている通り、つい最近、柔沢紅香は死んだわ。この時計はね、柔沢紅香が生前に、とある工房に特別に注文したものなのよ。それを、わたしが横から頂戴《ちょうだい》したわけ。まあ、最初は記念品程度の気持ちで、面白《おもしろ》い時計だなあくらいにしか思わなかったけどね。発想はムチャクチャ。でも、仕上がりは芸術レベル。こんな物を作らせるなんて、いかにもあの女らしいって呆れてたんだけど、一つ、引っ掛かる点があったのよ」  絶奈は腕時計を摘み上げ、文字盤の裏を真九郎に示す。  そして、そこに彫《ほ》られたアルファベットを指先で撫《な》でた。 「デザインが男物なのは、まあいいわ。でも裏の刻印はおかしくない? どうして『J・J』なんだろ? 柔沢紅香の私物なら、『B・J』のはずよね。そこで、わたしは考えたの。たしかにこれは柔沢紅香が注文したものだけど、自分が使うものじゃない。誰か他の人間のために作らせたんじゃないかなって。完成の期日は十二月。時期的に見て、多分、クリスマスプレゼントだと思う。この腕時計は、柔沢紅香が誰かにプレゼントするために注文したものなのよ。ここまでのわたしの推理、何か間違ってるかしら?」  真九郎は数秒遅れて、「はあ……」と曖昧《あいまい》な返事。  ……しまった。  己《おのれ》の未熟さを、真九郎は恥《は》じていた。本気で恥じていた。  こういう場で腹芸《はらげい》のできない自分は、やはり三流。圧倒的に経験値が足りない。相手の目論見《もくろみ》が不明な以上、ここは受け流すのが無難。反応は最低限に抑え、平静を装うところ。  それを真九郎は、紅香の名が出たことに気を取られ、話に聞き入ってしまったのだ。  紅香と自分が無関係ではないことを、態度で表してしまったのだ。  おそらく今ので、絶奈も気づいたことだろう。これは当たりだ、と。  それをおくびにも出さない彼女は、こちらよりも巧者《こうしゃ》。確実に交渉慣れしている。  一向にペースを変えることなく、絶奈は淡々《たんたん》と言葉を続げた。 「でね、そこで気になってくるのは、その誰かが何者かってこと。この腕時計の本来の持ち主は、どんな人間かってこと。わざわざこんな手の込んだ物を用意するくらいだし、知人や友人じゃないでしょう。よっぽど親しい相手なのは間違いないわ。普通に思いつくのは、親か恋人。でも、親はあり得ない。柔沢紅香の親は、とっくの昔に死んでいる。恋人の可能性も、限りなく低い。あの女の相手ができる男なんて、まずいないからね。さあそうなると、いったい誰だろう? 知人でも友人でも親でも恋人でもない、この腕時計の本来の持ち主とは何者か? 柔沢紅香は、これを誰に贈ろうとしていたのか? 最初はわからなかったけど、名前のイニシャルを見ているうちに、わたし、ピンときたのよね」  絶奈は腕時計をポケットに押し込むと、グラスを手に取った。口をつけ、中身を残らず流し込み、氷を舌《した》の上で舐《な》め転がす。  それをガリッと齧《かじ》ってから飲み込み、余裕を持って断言。 「柔沢紅香には、子供がいる。この腕時計は、その子供のために用意した物なのよ」  真九郎は、もう身じろぎもしなかった。  絶奈がどういう人間なのか、これがどれだけ危険な状況なのか、わかってきたからだ。  こちらを気にせず、彼女は淡々と総括《そうかつ》。 「あの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な女が母親なんて、普通なら信じない。考えもしない。そんな情報、何処にも流れてないしね。でも、わたしはいると思う。この腕時計が、動かぬ証拠。柔沢紅香の子供。名前のイニシャルは『J・J』。柔沢……何ていうのかしら? まあとにかく、わたしはその子を捜してるってわけ。以上で、話は終わりよ」  会話が一段落するのを見計らっていたのか、静かに近寄って来た店員が、空の酒瓶を片付け始めた。テーブルの汚れをサッと拭《ふ》き取り、注文の品を並べる。一礼して去る店員には目もくれず、絶奈はさっそくブランデーを掴むと、自分のグラスへ。  そして横目でこちらを窺い、クスッと笑った。  真九郎の表情が、あまりに強張《こわば》っていたからだろう。 「どうやらお互いに、相手の欲しい情報を持ってるみたいね?」 「……一つ、質問させてください」  緊張で、声が少し掠《かす》れている。息も乱れている。  それでもかまわず、真九郎は絶奈を睨《にら》み据《す》えた。  事ここに及んで、知らぬ存ぜぬでは通せまい。  ならば、率直《そつちょく》に尋ねるべし。 「星噛さん。仮に、柔沢紅香に子供がいるとして、あなたはどうするつもりなんですか?」 「そうね、どうしようかな……」  グラスの縁《ふち》を指でなぞりながら、絶奈の口が笑いの形に歪《ゆが》んだ。  暗い照明の下に見えるそれは、今までとは違う笑み。  少女らしい陽気さに、狡猾《こうかつ》な邪悪さを含むもの。 「なんたって、あの柔沢紅香の血を引く人問だからね。使い道はいくらでもあるのよ。例えば、うちの会社でじっくり調教してから、裏市場に出してもいいわ。母親そっくりに整形して出品すれば、きっと大ウケよ。買った後は、嬲《なぶ》り殺すなり剥製《はくせい》にするなりペットにするなり自由。あの女を恨《うら》んでる奴《やつ》は世界中に大勢いるし、相当な高値が付くでしょう。多分、一財産築けるんじゃないかしら?」  一瞬、真九郎はゾッとした。  話の内容に怯《おび》えたからではない。彼女が本気だと、わかったからでもない。その異常な言葉が、何の抵抗もなくこちらの意識に滑り込んで来たからだ。それは多分、この場の雰囲気のため。ここにあるのは、彼女のような思考を是《ぜ》とする空気。耳を澄ませば、周りから漏れ聞こえてくる。バーカウンターにいる男女は、誘拐《ゆうかい》ビジネスについて相談している。壁際のソファで笑う男たちは、子供の肉がいかに柔らかくて美味《うま》いかについて語っている。その近くにいる男たちは、暗殺リストをトランプのようにテーブルに広げている。ここは、その種の会話が当たり前のように行われる場なのだ。それが常識として通じる空間なのだ。  その毒気から逃れるように、真九郎は軽く拳を握り、意識を周りから切り離した。  落ち着いて、頭を整理する。  瀬川早紀の情報と引き換えに、絶奈が要求しているのは柔沢紅香の子供の情報だ。  紅香の子供について、真九郎の持つ知識はごく僅《わず》かに過ぎない。紅香本人から聞いた話と、闇絵《やみえ》との世間《せけん》話から得た微量なもの。  性別は男。小学校低学年。住所は都内。ハッキリわかるのは、その程度。  しかし、たったそれだけでも貴重なものだった。何故ならそれは、あの村上《むらかみ》銀子でさえ掴んでいない情報。一度も、欠片《かけら》も、裏世界には出回っていない情報なのだ。紅香が、己の権力を全力で行使した賜物《たまもの》である。彼女が何故そこまで細心の注意を払うのか、理由は言うまでもないだろう。裏世界は完全な弱肉強食。あらゆるところに魔の手あり。ほんの小さな手掛かりからでも、本筋を辿られる可能性はある。一度でも存在を確認されてしまえば、柔沢親子の平穏《へいおん》は終わり。ゆえに紅香は、ごく親しい人間にしか子供の話をしなかったのだ。  この場において、彼女の子供の情報は、真九郎の持つ唯一《ゆいいつ》の有効なカード。  自分がどうするべきなのかは、もう決まっていた。  悩む必要もなく、考えるまでもなく、わかり切っていた。  真九郎はグラスを一気に呷《あお》り、冷たいウーロン茶を全て飲み干す。空のグラスをやや強めにテーブルに置くと、中にブランデーを注いだ。なみなみと、満杯になるまで。  それを話題の肯定と解釈したのか、絶奈は薄ら笑い。  胸の前で手を叩き、上機嫌で結論を求める。 「じゃあ紅くん、そろそろ訊いてもいい? わたしと君の情報交換。答えは?」  絶奈の顔に、ブランデーが弾《はじ》けた。真九郎が手首を振り、グラスの中身をぶちまけたのだ。琥珀《こはく》色の液体が顔中に広がり、氷は膝の上を転がって床へ。  その間、彼女は笑みを消さず、瞬《まばた》きもしなかった。  前髪についた水滴を指で弾きながら、絶奈は不思議そうに言う。 「……ねえ、これってどういう意味? 交渉決裂? それとも手が滑った?」 「交渉決裂です」 「理由は?」 「俺、嫌いなんですよ。子供を食い物にするような人間は」  純粋に取引としてみれば、絶奈の申し出はそれほど不当なものではない。情報と情報。等価交換。普通の揉め事処理屋なら、まず呑むだろう。そして、自分の仕事を完遂《かんすい》する。  だがしかし、紅真九郎にはそんなことはできなかった。  いかに仕事のためとはいえ、恩人を裏切るなど論外。  そんな話は、検討にも値《あたい》しない。  だから真九郎は、あえてグラスの中身を絶奈にかけたのだった。  挑発《ちょうはつ》でも侮辱《ぶじょく》でもなく、自分の答えとして。  この件に関して、自分は絶対に交渉に応じないという意思表示として。  自分の持つこの貴重なカードは、決して使ってはいけないものなのだ。 「君とは、仲良くなれると思ったのになー……」  絶奈は残念そうな顔でそう言い、近くの店員にタオルを持って来させた。間もなく渡されたタオルを受け取ると、顔を拭きながら、「あとはもう、強奪戦しかないわね」と代案を持ち出す。 「強奪戦?」 「わたしが欲しいものを、君が持ってる。君が欲しいものを、わたしが持ってる。そして残念ながら、取引は不成立。だったら、強奪するしかないわ」  要するに、力ずくってわけか……。  この世には表と裏があり、ここは裏世界。  情も法も倫理《りんり》もクソ喰《く》らえ。  お互いの利害がぶつかった場合、最後にものを言うのは暴力だ。  普段の真九郎であれば、この種の提案には悩み、たいていは退《ひ》くところ。  しかし、今日ばかりはそうもいかないだろう。  現状、最も有力な手掛かりがすぐ目の前にあるのだ。  絶奈としても、真九郎が情報を持つと知れた以上、無事にここから帰す気はあるまい。  真九郎は腹を据え、「……受けましょう」と強奪戦を承諾《しょうだく》。そして双方の協議の末、ルールが定まった。時間は無制限。凶器の使用は自由。テンカウント制。  絶奈は嬉々《きき》々として店員を呼びつけ、希望を伝言。そして支配人の指揮の下、即座に作業が始まった。そこはさすがに違法の地。この程度のトラブルは日常|茶飯事《さはんじ》ということだろうか。他の客たちは特に文句を言うでもなく、整然と退場。邪魔なテーブルやソファは両端へと寄せられ、中央に広い空間が生まれる。  徐々《じょじょ》に整う舞台を見ながら真九郎は革ジャンを脱ぎ、手近なソファに放り投げた。早くも、膝が小さく震えている。場に満ちる凶気に恐れをなし、心が悲鳴を上げている。  今さらビビるなよ……。  己の脆弱《ぜいじゃく》さを噛み締めつつ、真九郎はフロアの中央へ進み出た。  対する絶奈はといえば、左手にブランデーのボトルを下げ持ち、余裕|綽々《しゃくしゃく》の態度。 「紅くん、大丈夫? なんか、顔色悪いみたいだけど」 「気にしないでください」  呼吸を整えながら、真九郎は二メートルほどの間合いを保つ。  強奪戦を提案してきた点からしても、絶奈は、よほど戦闘に自信があると考えるべきだろう。さらに、彼女は裏十三家の人間。警戒こそすれ、力の出し惜《お》しみなど無意味だ。  未知の敵には、全力で当たるべし。  ……やるか。  真九郎は覚悟を決め、心の奥のスイッチを切り替えた。数瞬の痛みと出血に続き、右|肘《ひじ》から突き出る鋭利な角《つの》。体内を駆け巡《めぐ》る熱波。怒濤《どとう》のエネルギー。それを四肢《しし》に伝え、指先に垂《た》れた血を舌で舐め取り、真九郎は拳を握る。  店内が、水を打ったように静まり返った。  真九郎の変貌《へんぼう》を、右腕の角を、誰もが凝視しているのだ。店員たちの顔に浮かぶのは、裏十三家への畏怖《いふ》。そして〈崩月《ほうづき》〉への敬意。支配人さえもが、目を見開いて動かない。  その静寂を吹き飛ばすように、真九郎は声を張り上げた。 「崩月《ほうづき》流甲一種……!」 「ハハハハハハハハハハハハハハハッ!」  遮ったのは、甲高《かんだか》い笑い声。  この場でただ一人、真九郎の変貌に呑まれない者。 「なーんだ、君、〈崩月〉の人間だったんだ! まさかこんなところで、そんな天然記念物に会えるなんてね……」  絶奈は大口を開けて笑い、愉快《ゆかい》そうに問う。 「君さ、いくつだっけ? まだ学生?」 「十六歳の、高校一年です」 「若くて素直な〈崩月〉の戦鬼《せんき》か……。同じ裏十三家としては正式に名乗るべきとこだけど、面倒《めんどう》だし、省略していいかしら?」  真九郎が頷くと、彼女はようやく笑いを収める。  そして短く自己紹介。 「わたしは、〈孤人要塞《こじんようさい》〉星噛絶奈よ」  その意味を、真九郎はしばらく理解できなかった。やがて頭が正常に働き、記憶と現実を照らし合わせ、意識に答えを送る。 〈孤人要塞〉。  それは、真九郎が記憶の片隅に保管しておいた名前。  柔沢紅香を殺したという人物の通り名。  こいつが……紅香さんを……?  仰々《ぎょうぎょう》しい通《とお》り名から想像していたのは、多数の重火器を操《あやつ》る巨漢の殺し屋。  それが現実には、こんな少女だというのか?  こんな少女が、あの紅香を殺したと喧伝《けんでん》しているのか?  混乱する真九郎を置き去りに、舞台は完成へと向かう。片手を上げ、絶奈はBGMを要求。それに応じて流れ始めたのは、ストラヴィンスキー作曲『カッチェイ王の魔の踊り』。バレエ組曲『火の鳥』の中の一つであり、吹き荒れる嵐のような曲。  その激しい旋律《せんりつ》に心音を乱され、真九郎は慌てて呼吸を整え直した。  改めて拳を握り、己に活《かつ》を入れる。  今は余計なことを考えるな。集中しろ。 〈孤人要塞〉。それがどうした?  目の前にいるのは、有力な手掛かりを握る人物であり、倒すべき敵。それ以上でもそれ以下でもない。ここで一気に片をつけ、今回の件を解決する。紅香の件は、それから考えればいい。  こちらの心情を知ってか知らずか、絶奈は満面の笑みを浮かべていた。  両手を大きく広げ、彼女は高らかに開戦を告げる。 「さあ、かかっておいで紅くん!〈崩月〉の力、わたしが確かめ……」  問答無用で、真九郎は右足を跳《は》ね上げた。狙《ねら》いは顎《あご》。見事な弧《こ》を描き、鋭いハイキックが完壁に命中。絶奈は声もなくのけぞり、数歩後退。その隙を逃さず、真九郎は一気に畳《たた》みかける。崩月|法泉《ほうせん》いわく、崩月流はケンカ殺法。ケンカにおいて先手必勝は上策であり、躊躇《ちゅうちょ》はない。真九郎は短く息を吸い、再び顎を狙ってジャブを四連射。全弾命中。完全に体勢を崩《くず》し、がら空きになった彼女の鳩尾《みぞおち》にトドメの一撃。体を貫く勢いで、右拳を叩き込んだ。その衝撃で絶奈の体は後方へ弾け飛び、端にある、バーカウンターに背中をぶつけ、木材が砕《くだ》け散り、棚に並んだ数十本の酒瓶が転倒。そして。 「そんな……」  真九郎は目を疑った。  絶奈は、倒れなかったのだ。髪の乱れを直しながら、彼女は何事もなかったようにその場に立っていた。少しもよろけることなく、姿勢は正常。左手には、さっきと変わらずブランデーのボトル。欠片もダメージのない様子は、あまりに非常識。  ……どういう耐久力だよ。  驚愕《きょうがく》する真九郎に、絶奈は「素晴らしい!」と賞賛を贈る。 「今の不意打ち、とても良かったわよ? 久しぶりに、ちょっぴり痺《しび》れたわ」  平然と笑う彼女を見て、真九郎の背筋《せすじ》を冷や汗《あせ》が伝わった。  殺意こそ込めなかったが、最後の一撃は本気だったのだ。渾身《こんしん》の力を拳に乗せ、急所に打ち込んだ。角度は良かった。タイミングも良かった。手応《てごた》えもあった。  それで、どうして立っていられるのか?  必死に分析《ぶんせき》しようとする真九郎を前に、絶奈は悠然《ゆうぜん》とブランデーに口をつける。三分の一ほど飲んでから、「次は、こっちから行きましょうか……」と戦闘準備を開始。ボトルをバーカウンターに置くと、おもむろにジャケットの右|袖《そで》をめくった。その下から現れたのは、人肌ではあり得ない硬質な輝き。明らかに、特殊な造形物。  戦闘用の義手。 「……その右腕が、武器ってわけですか」 「そうよ。でも、そこらの二級品と一緒にされると困るわ。わたしのは、星噛製だし」 「星噛製?」  真九郎の疑問には答えず、絶奈は腰のベルトに手を伸ばす。指で挟み、そこから抜き取ったのは黄銅色《おうどしょく》の薬莢《やっきょう》。口径は七ミリ。困惑《こんわく》する真九郎に見せつけるように、彼女はゆっくりと右腕に装填《そうてん》。カシャンという金属音を立て、薬莢は義手の中に消えた。  準備完了。 「じゃあ行くわよ、紅くん。……まだ死なないでね?」  絶奈はニコッと微笑《ほほえ》み、いきなり速攻。  五メートルの間合いをあっさり詰め、眼前に迫る。  やばい!  真九郎は、咄嗟《とっさ》に真横へ跳躍《ちょうやく》。が、彼女はそれを難なく追尾《ついび》。余裕で正面に回り込むと、義手を作動。真九郎の肉体をかつてない災厄《さいやく》が襲《おそ》った。異常な圧力を伴《ともな》い、金属製の拳が顎に激突。その凄《すさ》まじい衝撃は脳天まで突き抜け、頭蓋骨《ずがいこつ》が派手に軋《きし》み、体が吹っ飛ぶ。意識が途切れなかったのは何かの偶然。絨毯を削《けず》り取るようにして床を転がり、真九郎は壁に叩きつけられた。 「あがっ……」  開いた口からこぼれ落ちるのは、血と唾液《だえき》、そして砕けた奥歯と清けない悲鳴。顎に痛みが走り、脳が痺れ、視界が揺れる。床が傾く。  ……なん…だよ……今のは……。  身軽な動きからは想縁もつかない重爆。  まるで、ショベルカーにでもぶん殴られたような感覚だった。  右腕の角が発動し、全身の機能が上昇していなければ即死だったかもしれない。  真九郎は過去に一度、特殊な義手を相手にしたことがある。使い手は戦闘屋、〈鉄腕〉ダニエル・ブランチャード。彼の両腕も相当な出力を誇っていたものだが、絶奈はその数段上だ。医療用と軍事用ほどの差があるだろう。  これが、柔沢紅香を殺したと豪語する者の力。  常識外れの耐久力は、堅牢《けんろう》な壁。  強力|無比《むひ》な打撃は、要塞砲。  まさに〈孤人要塞〉。  酒の席の武勇伝も、ただの与太話《よたばなし》ではないということか。  絶奈はジャケットの右袖をめくると、鼻歌交じりに義手を操作した。パシュッという音を立て、空《から》薬莢を排出。それを足元に転がし、同じく床に転がる真九郎を見て、口元を緩《ゆる》める。 「ワン、ツー、スリー、フォー……!」  こちらの動揺を煽《あお》るように、絶奈は大声でカウント開始。真九郎は慌てて思考を打ち切り、近くの窓ガラスに手をつきながら立ち上がった。  顎は痛むが、視界はどうにか安定。体力もまだ十分。  しかし、状況は圧倒的に不利だ。  絶奈に対する攻略法が見えないこともあるが、それだけではない。周囲で観戦している店員たち。彼らの手に、いつの間にか拳銃が握られていたのだ。  店の上客である星噛絶奈と、新参者《しんざんもの》の紅真九郎。  どちらに加勢するのが得策かは、考えるまでもあるまい。  戦況に応じて、その銃口はこちらへ向けられるはず。 「どうかした、紅くん?」  挑発のつもりか、それとも単純に闘争が好きなのか。  棒立ちの真九郎を見て、絶奈は笑っていた。  ニヤニヤと笑っていた。 「ほら、ボケッとしてないで、かかっておいでよ。いくらでもかかっておいでよ。もしもわたしに勝てたら、君の知りたいこと、みーんな教えてあげるからさ」  ……やってやろうじゃないか。  真九郎は口元の血を手の甲《こう》で拭《ぬぐ》うと、再び拳を構えた。  星噛絶奈は、瀬川早紀の失踪に絡んでいる。重要な手掛かりが眼《め》の前にある。これに勝利すれば、全て解決するのだ。ならば歯が砕けようと、肉が潰れようと、骨が折れようと、鉛弾《なまりだま》を喰らおうと関係ない。徹底抗戦あるのみ。  こんなところで、退けるものか。  ここまで来て、手ぶらで帰れるものか。  意地でも……! 『真九郎。万一のときは、臨機応変に対応するのよ? 危険を感じたら、すぐ引き返す。やばいと思ったら、さっさと逃げる。わかった?』  不意に、村上銀子の忠告が脳裏《のうり》をよぎった。  それは多分、理性の仕業《しわざ》。いつでも自分を叱《しか》りつける彼女の声は、紅真九郎の意識に自然と冷水を浴びせる。常《つね》に正しいその意見を、心は検討する。  真九郎は拳を握ったまま深呼吸。鼻から息を吸い、口からゆっくりと吐き出した。  静かに熱が引き、冴《さ》える頭。働く思考。  ……落ち着け、紅真九郎。  相手はどうだ? 勝算はどうだ? 怪我《けが》はどうだ?  強敵。不明。軽微。  では、今この場でとれる最善の行動は何か?  答えに要した時間は三秒。 「来ないなら、またこっちから行くわよ? 次は……」  絶奈の手が腰のベルトに伸び、視線がこちらから外れたそのとき。  真九郎は近くのソファを片手で掴むと、思い切り放り投げた。狙いは天井。派手なシャンデリア。豪快な音を立てながら砕け散り、破片が舞い、周囲を包む一瞬の混乱。それに乗じて、真九郎は床を蹴《け》って跳躍。前方ではなく、後方へ。背中で窓ガラスを突き破り、そのまま夜空へ。高さは、およそ二十メートル。空中で身を捻《ひね》り、強風を受けながら垂直落下。着地と同時に膝を限界まで折り曲げ、衝撃を緩和《かんわ》。さらに横転し、残りの衝撃も拡散。服に絡みつく空き地の雑草を払いながら立ち上がり、車道ヘダッシュ。そこにタクシーが通りかかったのは、最高の幸運。真九郎はヘッドライトに向かって手を振り、タクシーを停《と》めて後部座席に滑り込む。  そして、呆気《あっけ》に取られる運転手に愛想笑いを返し、なるべく平静な声で言った。 「……すいません。駅まで、お願いできますか?」  時刻は午後十一時五十五分。  深夜の駅のホームは、ひっそりと静まり返っていた。  間もなく一日が終わる。人も建物も、ゆったりと休息に向かっているのだろう。天井に並ぶ蛍光灯の下、動くのはほんの数人。千鳥足《ちどりあし》で歩く酔客や、ゴミ箱を漁《あさ》るホームレス、そして見回りをする駅員など。電車は一向に来る気配がなく、辺りに漂うのは時間が止まったような冷たい空気。  その寂しい光景を見ながら安堵《あんど》の息をつき、真九郎は近くの自販機に向かった。硬貨を入れ、温かいウーロン茶を選択。それを取り出してから時刻表の前へ行き、肩を落とす。 「やれやれ……」  次の電車が来るのは、十数分も先のようだった。上手《うま》く危機を脱したはいいが、その後は駅で足止め。かなり間抜《まぬ》けなこの構図は、いかにも自分らしいというべきか。  まあいいかと気持ちを切り替え、真九郎は無人のベンチに腰を下ろすことにした。手元の缶を開けてウーロン茶を飲むと、胃袋が小さくグウと鳴る。夕飯を抜いた上に重労働を課したことを、今ごろになって抗議しているらしい。顎は痛む。奥歯は砕けた。さらに体はガス欠寸前。体調としては最悪の部類であるが、気持ちが沈んでいないのは、それなりの成果を得られたからだろう。最後は散々だったが、危険な盛り場に乗り込んだのは正解。  今回の件に絡む重要な人物を、特定できたのである。  問題は、その人物が恐ろしく厄介《やっかい》ということ。そして、瀬川早紀との関係か。  裏世界の猛者《もさ》と、真面目な少女。  二人のどこに接点があるのか。  ……とにかく、仕切り直しだな。  疲れた体に鞭《むち》打っても、いい考えは浮かぶまい。  真九郎はひとまず思考を中断し、ウーロン茶を飲みながらズボンのポケットに手を入れた。携帯電話を開いて、動作確認。いかに衝撃を殺したとはいえ、二十メートルの落下はカタログスペックの範疇外《はんちゅうがい》。店には革ジャンを忘れてきてしまったし、さらに携帯電話まで壊れたのでは大損害である。  いろいろ試した結果、液晶も動作も異常なし。メールが一件入っていたので見てみると、銀子からだった。『終わったら報告』、という短い内容。今夜の予定は既に伝えてあるので、その首尾《しゅび》が気になるのだろう。  真九郎は返事の文面を練ろうとしたが、すぐに中止。こういうことは直接電話。  ボタンに指を当て、素早く操作。 「もしもし、銀子?」 「……何?」  いつにも増して素《そ》っ気無《けな》い声だった。  人気《ひとけ》のないホームを見渡しながら、真九郎は理由を考える。時間から推理。 「あ!、ひょっとして…………風呂?」  返事の代わりに聞こえたのは、衣擦《きぬず》れの音。彼女がいるのは、どうやら自宅の風呂場前。それも、今から入るところのようだった。風呂は万人共通の娯楽。村上銀子も長湯が大好き。その楽しみを邪魔するのはこれで二度目になるので、彼女が気分を害するのも当然か。  真九郎は姿勢を正し、「……突然お電話して、すいませんでした」と素直に謝罪。  いつも深夜に入るんだなあ、などと思いつつ、報告開始。 「例の、違法カジノでの聞き込みだけどさ、ついさっき終わったよ」 「結果は?」 「失敗」 「そう」  報告終了。  失敗した点について特に驚いた様子がないのが、ちょっと悲しかった。  若干落《じゃっかん》ち込みながら、真九郎は早目に電話を切ろうとするも、そこでふと思いつく。  今日一日の締めとしては、ちょうどいい話題だ。  ここで訊いておくことにしよう。 「……銀子。この前の件について、詳しく教えてもらえないか?」 「この前の件?」 「〈孤人要塞〉ってのは、何者なんだ?」  柔沢紅香の死亡説を伝えられた夜。犯人に関して、銀子は通り名以上のことを口にしなかった。紅香の生存を信じる真九郎にとって、それは些細《ささい》なこと。  しかし、今夜の騒ぎで状況は変わったのだ。  自分と〈孤人要塞〉は、無関係ではなくなってしまった。  これからに備えて、知識は持っておく必要がある。 「わかってることだけでいい。教えてくれ」  重ねて頼むと、数瞬の沈黙に続き、電話の向こうで小さなため息。  彼女のため息が、真九郎は不思議と嫌いではない。幼い頃から何度も聞いているそれには、村上銀子という少女の優しさと厳《きび》しさが、等分に感じ取れるからだろう。  冷たい風がホームを吹き抜け、タバコの吸い殻が足元を転がり、間もなく急行が通過するという構内アナウンスが流れた頃、銀子はもう一度ため息。  そして、仕方なさそうに答える。 「……名前は、星噛絶奈。裏十三家の人間で、おまけに悪宇《あくう》商会の最高|顧問《こもん》よ」 「なるほど、ありがとう」  幼なじみに感謝。  新たな事実は驚くべきものだったが、今夜の真九郎はどうにか許容することができる。  そういうことか……。  やけに低姿勢な支配人。店の従順な対応。どれだけ騒いでも文句を言わず、素直に退場した周囲の客たち。どれもこれも、彼女の正体を知ればたしかに合点《がてん》がいくのだ。  裏十三家の血筋に加えて、悪宇商会のトップ。  力と地位を併《あわ》せ持つあの少女は、まさに裏世界の暴君というわけか。  銀子が躊躇《ちゅうちょ》したのも、その危険度ゆえだろう。相手は大物。真九郎程度では、害になり兼《か》ねない知識である。  ……ま、それと敵対しちゃったわけだけどな。  自嘲《じちょう》気味に笑いつつ、真九郎が手元のウーロン茶を飲んでいると、今度は銀子から質問。 「で、あんた、どうして急に詳しく知りたくなったの?」 「まあ、ちょっと……」 「わかってると思うけど、その件には首を突っ込むんじゃないわよ? あんたが気になるのは当たり前だし、調べて欲しいなら、情報は集めてあげる。料金は要らない。でもね、これはきっと、詳しく知ってもあまり意味がない事件なのよ。それよりも、今は自分の仕事に励《はげ》みなさい。例の瀬川早紀って子、まだ見つかってないんでしょ?」 「…………」 「真九郎、聞いてるの? 真九郎?」  銀子が名前を呼んでいる。声は聞こえている。耳に届いている。  それでも真九郎は、一言も返せなかった。  そんな余裕はない。  ベソチから僅かに腰を浮かし、全神経を前方に集中。  声と感情を繋ぐ糸を断ち切ってから、どうにか口を開く。 「……銀子、もう切るよ。また明日な」  返事を待たずに通話を切り、真九郎は携帯電話を尻《しり》ポケットに押し込んだ。  睨みつける視線の先は、線路を二本挟んだ向かい側のホーム。  さっきまでは、無人だった場所。  今はそこに、少女が一人。  夜でも映える赤い髪。黒のロングジャケット。口元に浮かぶ、挑発的な笑み。 「紅くん。今、誰と電話してたの?」  星噛絶奈。  静かなホームに、彼女の声が響く。 「ねえ、誰と電話してたの?」 「……ただの知り合いですよ」 「ふーん。ちなみに、今の気分は?」 「……最悪です」  己の迂闊《うかつ》さに猛烈に腹が立ち、真九郎は自分を殴りたくなった。  バカか、俺は……!  店から離れたとはいえ、まだ完全に逃げ切ったわけではない。ここは五月雨《さみだれ》荘でもない。それなのに、自分は気を抜いていた。追跡されるなどとは思いもせず、一服していたのだ。  追い詰めた余裕からか、絶奈は上機嫌の様子。  夜風に乱れる髪に手を当てながら、彼女は言う。 「君、なかなかやるわね。さっきは見事に一本取られたわ。でも、途中退場はちょっと酷《ひど》いんじゃない?」 「……ルール上は、時間無制限のはずです。続きは、次の機会にってことでどうですか?」 「次の機会?」  真九郎の提案に笑みを消し、絶奈は不満そうに目を細めた。しばし悩むように暗い空を見上げ、軽い足取りで前進。ホームの端から飛び降りて、線路へ。  そして砂利《じゃり》を踏み締めながら、こちらに向かって歩き出す。 「紅くん。わたし、ルールが大事だってのは認めるんだけどさ……。嫌いなのよね」 「何がです?」 「『次の機会』とか『また今度』とか『今日のところは』とか、そういうの嫌いなの。大事なことを後回しにするの、嫌いなの。一度始めたら、最後までやる。とことんやる。徹底的にやる。逃げたら追うし、謝っても殴る。ふざけた真似《まね》をすれば、ぶち殺す。今までずっと、そうやってきたのよ。だって、中途半端は気持ち悪いでしょ? こう、何というか、胸の辺りがモヤモヤと……」  遠くで警笛《けいてき》。夜気《やき》を貫く甲高い響きは、周囲へ警告するもの。注意を喚起《かんき》するもの。真九郎は二歩下がるも、自分語りに夢中の絶奈は、その反応が遅れた。彼女は怪訝《けげん》そうに首を巡らせ、迫る事態に気づき、口を小さく開き、そして。 「あ」  急行列車と衝突した。  重量数十トンに及ぶアルミ合金製の車両が、怒濤の勢いで真九郎の目の前を通過していく。鼓膜を叩く轟音《ごうおん》。車両に見える、まばらな人影。渦巻《うずま》く風に頬《ほお》を打たれながら、真九郎はただ呆然《ぼうぜん》とそれを見送る。手から缶が滑り落ち、こぼれたウーロン茶がズボンと靴を濡《ぬ》らしても、体は動かない。呼吸も瞬きもできない。  列車が彼方《かなた》へ走り去り、辺りが静けさを取り戻してから、真九郎はようやく我に返った。視界の隅に映るのは、線路に横たわる絶奈の姿。真九郎は目を瞬《しばたた》き、深い呼吸を繰り返しながら、震える足を力いっぱい握り締める。  あまりに唐突。あまりにあっけない幕切れ。  まるで、悪質なジョークだ。  異常事態に頭が麻痺《まひ》し、これをどう捉えればいいのか、真九郎にはわからなかった。わかるのは、今のが偶然起きた事故ということ。そして、重要な手掛かりが消えたということだけ。嬉《うれ》しいのか、悲しいのかすらもわからない。  足の震えが止まらず、真九郎は背後のベンチに座り込もうとするが、そんな暇《ひま》もなし。  事態はさらに急転。 「あー、ビックリした!」  軽い調子の声と共に、絶奈が線路から起き上がったのだ。  彼女はホームの端に手をかけると、そのまま跳躍。言葉を失う真九郎の前に、ふわりと着地。  そして服の汚れを手で払いながら、何事もなかったように話を再開した。 「えっと、どこまで話したかしら……? んー、そうそう。だからね、次回とかそういうのはなしにして、今ここで決着をつけましょうってことなのよ」  真九郎が反応できたのは、二十秒後。  最初に放ったのは、当然の疑問。 「あんた……」 「ん?」 「本当に……人間か……?」  いくらタフでも限度がある。生物の限界がある。  列車は間違いなく、衝突したのだ。直前で飛び退《の》くことも、ホームの下に隠れることもなく、彼女は撥《は》ねられた。莫大《ばくだい》なエネルギーを伴う無機物に、肉体を蹂躙《じゅうりん》された。  ならば、立ち上がれるはずがない。  無傷などあり得ない。  平然と身なりを整える彼女の姿は、ほとんど悪夢だった。 「面白い質問だけど、腕から角を生《は》やす奴に言われたくないわね……」  真九郎の疑問に、絶奈は薄笑いを返す。  それは、無知に対する侮蔑《ぶべつ》の笑みか。 「一応誤解のないように説明しておくと、もちろん、わたしは人間よ? 妖怪でも、宇宙人でもないわ。性別は女であり、セックスや出産もできる。痛覚だってちゃんとある。もし肉体が危険を感じれば、脳はその信号を『痛み』や『苦しみ』として受け取る。では何故、君に殴られてもわたしは平気だったのか? 電車に撥ねられても、こうして立っていられるのか?」  彼女はそこで一度言葉を切ると、真九郎の険しい表情をじっと見つめた。  胸に手を当て、堂々と結論。 「それはね、紅くん。わたしが強いってことなのよ」  己の力に微塵《みじん》の疑いもなし。  笑顔で暴力を振るい、その身はいかなる暴力も受けつけない。  それが悪宇商会最高顧問、〈孤人要塞〉星噛絶奈。 「さあ、強奪戦を続けましょうか?」  彼女はゆっくりと右袖をめくり、左手を腰へ伸ばす。義手の操作。ベルトから引き抜いた黄銅色の薬爽を、緩やかに装填。  その様子を呆《ほう》けるように眺めながら、真九郎は悔《く》やんでいた。  心底《しんそこ》、悔やんでいた。  ……ちくしょう。  こちらのカードを、まんまと読まれたこと。安易に強奪戦を受けたこと。駅で暢気《のんき》に電車を待っていたこと。そして、相手がこれほどの怪物とは見抜けなかったこと。  全ては自分の失態《しったい》なのだ。  この窮地《きゅうち》は、己自身が招いたものなのだ。  紅真九郎は、やはり三流。 「行くわよ」  準備を整え、絶奈は笑顔で拳を握る。咄嗟に胸の前で腕を交差したのは、真九郎の直感。闘争本能の残り火。しかしそれは、何の意味も成さない。  要塞砲。  彼女の拳は余裕で防御《ぼうぎょ》をぶち抜き、肋骨《ろっこつ》を粉砕《ふんさい》。それでも威力《いりょく》は衰《おとろ》えず、真九郎はベンチの側にある自販機に激突。ガラスを割り、鉄板を凹《へこ》ませ、背中をこすりつけるようにしながら冷たい床に崩れ落ちた。 「じゃ、カウント始めちゃいまーす!」  星噛絶奈の楽しげな声。  そこにあるのは、加虐《かぎゃく》の響き。  胸の痛みで声が出ず、悔しさで涙が溢《あふ》れ、真九郎はぼんやりと視線を上げる。  天井付近にある薄汚れた時計が目に入り、ああ今は午前十二時十分だなと思い、この有様《ありさま》は明日の学校は無理だなと思い、あんまり休むと夕乃《ゆうの》さんに叱られるなと思い、また銀子かノートを借りようと思い、紫《むらさき》と何処かに行きたいなと思い、今ごろ紅香さんはどうしているかなと思い、彼女の子供はどんな子かなと思い、会ってみたいなと思い、そして。  辺りは闇に包まれた。 [#改ページ]    あとがき  中学生の頃、まったく唐突《とうとつ》に奇妙な選択を迫られたことがあります。  その日、わたしは家の近所の横断歩道で、信号が変わるのを待っていました。行き先は、駅前の本屋。目的は、早売りのマンガ雑誌。騒々《そうぞう》しい車の流れを見ながら欠伸《あくび》を漏《も》らしていると、一台の軽自動車がわたしの前で停《と》まり、助手席側の窓が下がったのです。こちらをじっと見つめるのは、運転席の若い男。道でも訊《き》かれるのかと思いきや、男は片手でハンドルを握ったまま、何故《なぜ》かもう一方の手を差し出して来ました。  手の上には、正方形の小さな箱が一つ。 「君、これ欲しい? 欲しくない?」 「…………いりません」  突然の問いに動揺しつつも、わたしはかろうじて男に返答。  男は特に残念がるふうでもなく、すぐに手を引っ込め、車は発進。時間にして十秒にも満たない出来事だったでしょう。あなたは誰なのか。その箱は何なのか。どうして、車を停めてまでわたしに話しかけてきたのか。それを訊く暇《ひま》もありませんでした。  翌日、学校でこの話をしてみると、友人は苦笑い。 「おまえ、バカだなあ……。そこで受け取ってれば、始まったかもしれないのに」 「何が?」 「今とは違う物語が、だよ」  今とは違う物語。あの小さな箱に、人生が変わるような物が入っていた可能性。なら受け取れば良かったかなあと、わたしは少し後悔。でもそうすると、こうして小説を書いている今の自分はあり得なかったかもしれず……。  果たしてあの日の選択は正しかったのか、それは未《いま》だにわかりません。  ここからは謝辞《しゃじ》を。  担当の藤田《ふじた》さん。今まで大変お世話になりました。また何処《どこ》かで、食事でもしましょう。  根気強く付き合ってくださった新担当の鳥山《とりやま》さん、魅惑的なイラストを描いてくださった山本《やまもと》さん、編集部のみなさま、そしてこの本を読んでくださった読者のみなさまに、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。 [#地付き]片山 憲太郎